使徒6章1~15節 給仕から説教者へ 教会に脇役はいない
導入――配膳係だった人が、次の場面では説教者になっている
今朝、私たちに与えられている御言葉は、使徒言行録6章です。
今日の説教題は、「給仕が説教を始めた―教会に脇役はいない」としました。
教会の週報に、ある週は「食事係・ステファノ」と書いてあった。ところが、次の週には「説教・ステファノ」と書いてある。そんな感じでしょうか。「えっ、配膳をしていた人が、今度は説教するのですか」と驚くかもしれません。
しかし、この題には少し注意が必要です。ステファノは、給仕という低い仕事から、説教という高い仕事へ昇進したのではありません。食卓に仕えることも、御言葉を語ることも、どちらも神様から託された尊い奉仕でした。ステファノは、目の前に置かれた一つの奉仕に忠実に仕えているうちに、神様から与えられていた別の賜物も用いられていったのです。
教会には脇役はいません。もっと正確に言うなら、教会の主役はイエス・キリストお一人です。しかし、その主役であるキリストが、御自分の体に連なる一人ひとりを、いらない脇役にはなさらないのです。
1.大きくなった教会で、小さく扱われた人がいた
使徒言行録の教会は、順調に成長していました。聖霊が降り、使徒たちが大胆に福音を語り、救われる人が次々と起こされました。6章1節にも、「弟子の数が増えてきて」とあります。
ところが、人数が増えると、問題も起こりました。外国で育ち、ギリシア語を日常語とするユダヤ人たちから、エルサレム周辺で育ち、主にアラム語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出たのです。毎日の食事の分配で、自分たちの仲間のやもめたちが後回しにされている、見落とされている、という訴えでした。
同じユダヤ人であり、同じ主イエスを信じていました。しかし、生まれ育った土地も、普段使う言葉も、文化も違いました。多数派と少数派の間に、気づかない溝ができていたのです。
「食事の配り方くらいで、教会の中でもめなくても」と思うかもしれません。しかし、身寄りの乏しいやもめにとって、毎日の食事は生きることそのものです。力のある人には小さく見える問題が、弱い立場の人には明日を左右する大問題であることがあります。
ここで聖書は、最初の教会を美化していません。聖霊に満たされた教会にも、見落としがありました。苦情もありました。これは、誰か特別に悪い人だけの話ではありません。子どもも、大人も、牧師も、長く教会に来ている人も、みんな、自分と似た人には気づきやすく、自分と違う人を見落としやすいのです。
しかし、福音はここで終わりません。
十二人の使徒たちは、「文句を言うなんて霊的ではない」と訴えを黙らせませんでした。また、「そんな細かなことは、祈って我慢してください」とも言いませんでした。弟子たち全体を集め、教会全体の問題として受け止めます。そして、評判がよく、聖霊と知恵に満ちた七人を選ぶように提案しました。
食事を公平に配るために、どうして「聖霊と知恵に満ちた人」が必要なのでしょうか。食事の数を数えられたら、それでよいのではないでしょうか。
そうではありません。食卓を整えることは、単なる作業ではないからです。その向こうには人がいます。寂しさがあります。傷があります。「私は忘れられたのではないか」という痛みがあります。教会の霊性は、講壇の上だけでなく、一つのお弁当を誰にどう手渡すかにも表れます。受付の挨拶にも、椅子を並べる手にも、休んでいる人を気にかける一通の連絡にも表れるのです。
選ばれた七人は、全員ギリシア語系の名前を持っています。だから全員が必ずギリシア語を話す側の人だったとまでは断定できませんが、見落とされていた側の事情がよく分かる人たちに、大きな責任を託した可能性があります。教会は、困っている人の声を聞くだけで終わらず、その声が教会の働きの中に生かされる道を開いたのです。
2.食卓の奉仕も、御言葉の奉仕も、同じ「ディアコニア」
十二人は、自分たちは祈りと御言葉の奉仕に専念すると言いました。ここだけを読むと、「使徒たちは説教のような霊的な仕事をして、ほかの人には給仕のような雑用を任せた」と聞こえるかもしれません。
ここを勘違いしないでほしいのですけれども、原文では、食卓に「仕える」ことにも、御言葉の「奉仕」にも、同じ仲間の言葉が使われています。「ディアコニア」、仕えることです。説教だけが聖なる奉仕で、食器を片づけることはただの雑用だ、と聖書は言っていません。
使徒たちは食卓を軽んじたのではありません。食卓も大切であり、祈りと御言葉も大切だからこそ、一部の人が全部を抱えるのではなく、それぞれに託された働きを分かち合ったのです。
御言葉を語っても、目の前の空腹な人がいつも見落とされているなら、その福音は空しく響きます。反対に、食べ物を配っても、罪を赦し、死から救ってくださるキリストが語られないなら、教会は親切な団体ではあっても、福音を託された教会ではなくなります。御言葉と食卓、祈りと実際の助け、そのどちらも必要です。どちらもキリストの愛を表す「ディアコニア」なのです。
そして、七人の中にステファノがいました。彼はまず、「信仰と聖霊に満ちている人」と紹介されます。さらに8節では、「恵みと力に満ち」て、不思議な業としるしを行ったと記されます。会堂で議論を挑まれても、彼が知恵と霊によって語るので、相手は対抗できませんでした。そして次の7章では、ステファノは聖書全体をたどりながら、長い説教を始めます。
給仕が説教を始めたのです。
けれども、これは給仕を卒業して説教者に出世した、という話ではありません。彼は、目の前に置かれた食卓に仕えました。その同じ人を、聖霊が御言葉の証しにも用いられたのです。食卓にパンを配った手が、今度は命のパンを指し示しました。
そもそも、私たちの主イエス御自身が、弟子たちの中で御自分を「給仕する者」として示されたお方です。弟子たちの足を洗い、罪人と食卓を囲み、最後には御自分の命まで差し出してくださいました。
十字架とは、神の御子が私たちの罪を背負い、私たちが受けるべき裁きを引き受けてくださった、究極の奉仕です。私たちが神様のためによく働いたから救われるのではありません。私たちがまだ罪人であり、神様に背を向けていた時に、キリストが先に私たちに仕えてくださったのです。そして、死から復活し、今も生きておられます。
私たちの奉仕は、救いの代金ではありません。救われた喜びから生まれる実です。「これだけ奉仕したから、神様は私を愛してくださる」ではありません。「何も返せなかった私を、キリストがここまで愛してくださった。だから、私も誰かに仕えたい」となるのです。順番を間違えてはいけません。
3.「礼拝に出たから帰ります」で、ずっとよいのでしょうか
さて、ここで私たちは、自分自身に問いかけたいのです。
日曜日に教会へ来る。礼拝に出る。讃美歌を歌い、説教を聞き、献金をする。そして礼拝が終わったら、すぐに帰る。次の日曜日まで、教会の誰とも関わらず、誰のためにも祈らず、教会で何が起きているかにも心を向けない。もしそれが何年も当たり前になっているなら、主は今朝、私たちを立ち止まらせておられるのではないでしょうか。
もちろん、礼拝後すぐに帰ること自体を罪だと言っているのではありません。仕事があります。介護があります。小さな子どもの都合もあります。体調のために、礼拝へ来るだけで精いっぱいの方もいます。人との交わりで傷つき、もう一度輪の中へ入るのが怖い方もいるでしょう。そういう方に、「残らないあなたは不熱心だ」と石を投げる説教ではありません。
礼拝に来られるだけで、本当に大きな一歩である時期があります。ベッドの上で教会を覚えて祈っている人が、役職をいくつも持ちながら不平ばかり言っている人より、はるかに生き生きと主に仕えていることもあります。
問題は、帰る時刻ではなく、心の姿勢です。教会を「自分が宗教的なサービスを受ける場所」とだけ考えていないか、ということです。礼拝は、舞台の上で牧師や奏楽者が何かを提供し、会衆が採点して帰る公演ではありません。教会は、牧師と一部の熱心な人だけが動かし、ほかの人はお客さんとして利用する施設でもありません。
初めて来られた方は、どうぞ安心してお客さんでいてください。何かをさせられるのではないかと警戒しなくて大丈夫です。まず、キリストの恵みを受け取っていただきたいのです。
しかし、キリストを信じ、教会に連なって何年もたつ私たちが、いつまでもお客さん席に座り続けるなら、話は別です。洗礼を受けて教会に加わるとは、教会サービスの会員証を手に入れることではありません。キリストの体の一部として、ほかの肢体と共に生き始めることです。
バプテスト教会は、牧師が教会を所有し、役員だけが教会をつくり、会員は時々見に来る、という教会ではありません。聖霊を与えられた一人ひとりが、共に祈り、共に聖書を聞き、共に考え、共に支え、共に福音を伝える教会です。
今年、私たちが大切にしている「共に」とは、同じ時刻に同じ部屋にいるというだけではありません。互いの喜びと重荷に、少しずつ自分の居場所を開いていくことです。
「でも、私には何もできません」と思うでしょうか。いや、いきなりステファノのように説教してくださいと言われたら、それは困ります。「それができたら苦労せえへんねん」となります。
けれども、今日、礼拝の後にいつもより10分だけ残り、一人の方に挨拶することはできないでしょうか。一人で座っている方の名前を覚える。椅子を一脚片づける。月に一度、一つの働きを引き受ける。週の半ばに、教会の一人を覚えて祈る。休んでいる方へ、責めるのではなく「お元気ですか」と短い連絡をする。牧師や役員に、「私にもできることがありますか」と尋ねてみる。
活信徒とは、予定表が教会行事で真っ黒な人のことではありません。キリストの命に生かされ、その恵みを自分のところで止めず、誰かへ少しずつ流していく人です。大きなことを全部する必要はありません。けれども、何もしないお客さんのままでいる必要もないのです。
そして教会の側も、「活信徒になりましょう」という言葉で、いつも同じ人に働きを集中させ、便利に使い続けてはいけません。使徒言行録6章でなされたのは、働きを抱え込むことではなく、分かち合うことでした。奉仕する人にも休む時があり、助けてもらう時があります。誰か一人が全部を背負うのではなく、それぞれができる一つを持ち寄る。それがキリストの体です。
4.仕え始める時、眠っていた賜物が目を覚ます
ステファノは、最初から「私は説教者です」と名乗って前へ出たのではありませんでした。教会から託された食卓の働きに仕えました。すると、その人の中に神様が与えておられた知恵、信仰、力、御言葉を語る賜物が、教会の前に現れてきたのです。
私たちも、「自分に何ができるか分かってから奉仕します」と考えます。しかし実際には、仕えてみる中で、初めて分かる賜物があります。
子どもに声をかけてみて、自分に子どもの話を聞く賜物があると分かる人がいます。受付に立ってみて、初めて来た人の不安に気づく人がいます。祈祷会で一人のために祈り続けて、人を支える祈りの賜物を知る人がいます。機械が得意だから配信を手伝ったところ、その働きを通して遠くにいる人へ福音が届くこともあります。
小さな奉仕は、ただ人手不足を埋める穴埋めではありません。神様が私たちの信仰を育て、与えた賜物を目覚めさせる場所でもあるのです。
同時に、教会の側も、人を一つの役割に閉じ込めてはいけません。「この人は給仕の人」「この人はまだ若い」「この人は教会に来て日が浅い」「この人には無理」と決めつけてはいけません。ステファノの内にある賜物を見いだしたのは、聖霊です。教会は、聖霊が一人ひとりをどのように用いようとしておられるかを、祈りながら見守るのです。
ただし、仕え始めれば何もかもうまくいく、と聖書は約束していません。ステファノが御言葉を語ると、反対する者たちが現れました。偽りの証人まで立てられ、彼は最高法院へ引いて行かれます。神様に用いられる道が、人気者になる道だったわけではありません。
それでも、人々がステファノを見ると、その顔は天使の顔のように見えた、と6章は結びます。彼の置かれた状況が平和だったからではありません。彼の内におられるキリストの平安が、敵意のただ中でも消えなかったのです。
ステファノの歩みは、主イエスの歩みと重なります。主イエスも偽りの証言によって訴えられ、神殿を巡る言葉を曲げて受け取られ、罪がないのに裁かれました。そして十字架につけられました。しかし、神様はそのイエスを復活させられました。
ステファノは、自分を救うために立派に戦ったのではありません。十字架にかかり、復活された主に支えられて、最後まで証ししたのです。
使徒言行録6章7節には、御言葉が広まり、弟子の数が非常に増え、祭司たちまでも信仰に入ったと記されます。それは、十二使徒が何もかも一人で抱え込んだからではありません。見落とされた人の声を教会が聞き、働きを分かち合い、名もなき弟子たちがそれぞれの場所で仕え始めた時に、福音はさらに広がっていったのです。
牧師にも、全部自分でやった方が早いと思う誘惑があります。しかし、それでは教会員をお客さんにしてしまいます。反対に、「牧師や役員がすることでしょう」と任せきりにすれば、自分の中に与えられた賜物を眠らせてしまいます。
教会は一人の名人芸で建てられるのではありません。赦された罪人たちが、聖霊によってそれぞれの場所に置かれ、共に仕えることによって建て上げられるのです。
結び――あなたの前に置かれている「食卓」は何ですか
今朝、主は私たち一人ひとりに問うておられます。
「あなたの前に、わたしが置いている食卓は何ですか。」
それは、本当に食事を配る働きかもしれません。受付かもしれません。掃除かもしれません。子どものそばに座ることかもしれません。病気の方を覚えて祈ることかもしれません。初めて来た方へ声をかけることかもしれません。誰にも知られず献げることかもしれません。
用事があるわけではないのに、誰とも言葉を交わさず、礼拝が終わればいつも真っ先に帰ることが習慣になっているなら、今日は少しだけ立ち止まってみませんか。いきなり大きな責任を負わなくてよいのです。
「主よ、今週、私は誰のために祈れますか。何を一つ担えますか」
そう尋ねてみてください。
しかし、まだキリストを信じていない方には、まず奉仕を求めているのではありません。神様に認めてもらうために、教会で働く必要はありません。
まず、あなたのために仕えてくださったイエス・キリストを受け入れてください。あなたの罪を背負って十字架に死に、復活された救い主に、自分を委ねてください。私たちが立派になったから救われるのではありません。何も差し出せない私たちに、救いは恵みとして与えられます。
そして、その恵みを受けた人は、少しずつ変えられていきます。
「私は何をしてもらえるだろう」から、「私は誰に仕えることができるだろう」へと、聖霊が心の向きを変えてくださいます。
教会には脇役はいません。主役はキリストお一人です。しかし、そのキリストの体には、不要な部分が一つもありません。食卓にパンを配る手も、講壇で御言葉を語る口も、礼拝へ来られない日に誰かを覚えて祈る心も、主は御自分の働きのために用いてくださいます。
給仕が説教を始めました。それよりも前に、神の御子が給仕する者の姿を取り、私たちの足を洗い、私たちのために命を与えてくださいました。
この福音を、今朝もう一度受け取りましょう。そして、お客さんの席から立ち上がり、主が備えてくださった小さな一つの奉仕へ、共に歩み出そうではありませんか。
アーメン。
サムネイルは フラ・アンジェリコ作「聖ステファノの説教と最高法院での弁明」


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