『チ。―地球の運動について―』原作21話、アニメ9話までのネタバレを含みます。
また、原作の話数に合わせて神学(考察)していきますので、以下の過去作をまだご覧になっていない方はご覧ください。
チ。地球の運動について を神学してみた。|サブカル好きの牧師|note
チ。地球の運動についてを原作に基づいて、週2回くらいのペースで神学(考察)していく予定です。
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「文字が読める」って、どんな感じですか?
原作第21話で、オクジーはヨレンタに尋ねます。
文字が読めるとは、どんな感じなのか、と。
この質問、私たちにはかえって答えるのが難しいかもしれません。スマホも駅もコンビニも文字だらけ。noteを開けば、頼んでもいないのに私の文章まで出てきます。文字に囲まれすぎて、その凄さを忘れているのです。
しかしオクジーにとって、文字を読める人は身近にほとんどいませんでした。だからヨレンタは、少しためらいながら答えます。
「文字は、まるで奇跡ですよ。」
文字があれば、何百年も前の人の考えに触れ、遠く離れた人へ思いを届け、自分の死後にも感動を残せます。
その言葉に動かされたオクジーは、第22話で文字を学び始めます。しかも、ただ読めるようになりたいのではありません。自分が経験したことを本にしたいと言うのです。
ところが修道士バデーニは、これに冷淡です。誰もが文字を使うようになれば、世の中は「ゴミのような情報」であふれる、と言う。いやバデーニさん、未来のSNSを見てきたんですか。
実際、魚豊先生自身もインタビューで、この場面をフェイクニュースや怪しい情報が飛び交う現代と重ねています。文字は薬にも毒にもなる。実はここが面白いのです。
文字を守った教会、文字を独占した教会
では、本物のキリスト教の牧師である私が、ここを教会史から考察してみます。
『チ。』の舞台と思われる15世紀ヨーロッパで、庶民が読み書きできないことは珍しくありませんでした。印刷術普及前の本は、一冊ずつ手で写す高級品です。西方教会の聖書は主にラテン語の「ウルガタ訳」で、礼拝もラテン語中心。日常語しか話さない庶民には読めません。
ただし、「カトリック教会は庶民を無知にするため聖書を隠した」とまで言うと乱暴です。修道院は古代文書を保存し、学校や大学も教会と深く結びついていました。各国語の聖書もルター以前からあります。中世の知を守ったのも教会です。
ところが、その教育は主として聖職者や一部の上層階級に向けられ、オクジーのような下層の人々を広く読み書きできるようにする制度にはなりませんでした。つまり教会は文字を守った。しかし、その文字をすべての人へ十分に開いたわけではなかったのです。
説教を聞き、聖堂の絵やステンドグラスを見、祭儀へ参加すれば、文字が読めなくても信仰生活はできます。しかし一般信徒は「聖書に本当にそう書いてあるのか」を確かめにくく、解釈し教える力が聖職者へ集中します。
だからこの記事の題を、あえて「文盲を放置しておいた教会」としました。教会が教育を何もしなかった、という意味ではありません。知を蓄える力を持っていたのに、それをオクジーにまで届けることを最優先にはしなかった、という意味です。
ルターは聖書を「みんなの言葉」にした
そこへ登場したのが、宗教改革者マルティン・ルターです。
ルターは1522年に新約聖書を、1534年には旧新約聖書全体をドイツ語で刊行しました。言わずもがな、ルターが最初に聖書をドイツ語に訳した人ではありません。それ以前にもドイツ語聖書はありました。
それでもルター訳が画期的だったのは、原典を参照しながら、人々が話す生きたドイツ語で訳したことです。そこに活版印刷が加わり、聖書は聖職者の机から町の人々の手へ移っていきました。
もちろん、聖書を各国語に訳しただけでは、読めない人は読めません。そこでルターは1524年、ドイツ各都市の為政者に学校を設立し維持するよう訴えました。宗教改革には、「一人ひとりが神の言葉を読む」という理想と、そのために人々へ文字を教える運動とが結びついていたのです。
私はプロテスタントの牧師ですから、ここには宗教改革の大きな功績があったと思います。権威ある誰かが「聖書にはこう書いてある」と言う。それを信徒自身が聖書を開いて確かめる。使徒言行録17章11節のベレアの人々のように、教えを聞きながら毎日聖書を調べる。そのためには、読める聖書と、読む力の両方が必要です。
ただし、プロテスタントになった瞬間、全員が読み書きできる平等社会が完成したわけではありません。宗教改革者にも当時の身分観や限界はありました。ここも美談にしすぎてはいけません。
カトリックが聖書を一般信徒へ開いた時
では、カトリック教会はいつから、一般信徒が自分で聖書を読むことを積極的に勧めるようになったのでしょうか。
かなり単純化して言えば、カトリックが一般信徒に聖書を読むことを奨励しだしたのは、実に1960年以降のことでした。
もちろん、それ以前に各国語の聖書が一冊もなかったとか、聖書を読んだカトリック信徒が誰もいなかった、という意味ではありません。各国語訳もあり、聖書を信徒へ広めようとする個別の働きもありました。
しかし、教会全体の方針として「すべての信徒が聖書に近づき、自ら繰り返し読むべきだ」と強く打ち出した決定的な転換点は、1960年代の第二バチカン公会議です。
1965年に公布された啓示憲章『デイ・ヴェルブム』22項は、「すべてのキリスト信者が聖書に容易に近づけるようにしなければならない」と宣言しました。さらに25項では、すべての信徒に、聖書を繰り返し読むよう強く勧めています。
これ、よく考えると凄い宣言です。それまでは、聖書を読み、正しく解釈して信徒へ教えるのは、主として聖職者の役目だと考えられてきました。ところがここでは、一般信徒自身が聖書へ近づくことを教会が公式に勧めています。
また1963年の典礼憲章『サクロサンクトゥム・コンチリウム』も、礼拝の中で聖書をもっと豊かに朗読し、人々が理解できる母国語を用いる道を開きました。読めない言葉で神の言葉を管理する教会から、信徒が分かる言葉で神の言葉を分かち合う教会へ。カトリック教会はここで大きく舵を切ったのです。
私はプロテスタントの牧師ですから、「それをルターは400年以上前に言っていたやないか」と、ちょっとツッコミたくもなります。しかし、ここはプロテスタントが勝ち誇るところではありません。長い歴史を持つ教会が自らを点検し、一般信徒に聖書を開こうと決断した。その自己改革には、素直に敬意を払いたいと思います。
聖書を置くだけで、開いたことになるのか
さて、現代のプロテスタント教会には日本語の聖書があります。礼拝堂の椅子にも置いてあります。スマホなら無料で何種類もの翻訳を読めます。では、もうオクジーのような人を放置していないのでしょうか。
そうとも言い切れません。
文字は読めても、「義認」「贖罪」「聖化」などの教会用語が分からない。質問したくても、そんなことも知らないのかと思われそうで聞けない。牧師の説明を聞くだけで、自分では聖書を開かない。これでは、聖書は日本語になっていても、別の意味でラテン語のままです。
教会の役目は聖書を配るだけではありません。読み方を共に学び、分からないと言える場所を作り、自分の言葉で語れるようにすることです。誤情報が怖いから発言者を選別する。それはバデーニの論理です。
たしかに、誰もが発信すればゴミ情報も増えます。現代のネットを見れば、バデーニの心配は怖いほど当たっています。しかし、その解決は文字を一部の賢い人だけのものに戻すことではありません。必要なのは、読み書きする力と、情報を吟味する力を、もっと広く分かち合うことです。
オクジーは、文字を知らなかったから知性がなかったのではありません。学ぶ機会を与えられていなかっただけです。そして一度文字を手にした彼は、自分の感動を本にし、それが時代を越えて別の人を動かしていきます。
一人の文盲に文字を教えなかった教会。
その教会が見落としていた人の中に、歴史を動かす言葉が眠っていた。
このマンガ、凄くないですか?
文字を独占する者と、文字を奇跡と呼ぶ者。その間にオクジーを立たせた魚豊先生の構成に、あらためて敬意を表したいと思います。


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