チ。原作20話を神学してみた。ルシファーは悪魔の名前じゃなかった?ー聖書と金星の意外な関係

チ。原作20話を神学してみた。ルシファーは悪魔の名前じゃなかった?ー聖書と金星の意外な関係 サブカルを神学してみた

『チ。―地球の運動について―』原作20話、アニメ9話までのネタバレを含みます。
また、原作の話数に合わせて神学(考察)していきますので、以下の過去作をまだご覧になっていない方はご覧ください。



チ。地球の運動について を神学してみた。|サブカル好きの牧師|note


チ。地球の運動についてを原作に基づいて、週2回くらいのペースで神学(考察)していく予定です。


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今回の主役は一話まるまる金星です!

原作20話。

ピャスト伯がバデーニたちに突きつけた課題は、

「満ちた金星を観測すること」

でした。

金星。

今回の『チ。』では、地動説をめぐる重要な天体として登場します。

金星が満ち欠けすることは、その後の天文学史でも非常に重要な意味を持つのですが――今回はそっちには行きません。

本物のキリスト教の牧師である私が神学、もとい、盛大に脱線してみます。

というのもですね。

聖書における金星の扱いが、めちゃくちゃ面白いのです。

何しろ金星は、聖書の世界では、

あるところでは悪魔を連想させる星になり、

別のところではなんと、

イエス・キリストを表す星

になります。

悪魔とキリスト。

同じ星。

そんなことある?

あります。

これが今回のお話です。

そもそも聖書に「金星」は出てくるのか?

まず確認しておきます。

聖書を開いて、

「金星」

と索引を引いても、普通はほとんど出てきません。

古代イスラエル人が現代の私たちのように、

水星、金星、地球、火星、木星……

という太陽系の惑星一覧を持っていたわけではないからです。

しかし、金星そのものを知らなかったわけではありません。

言わずもがな、金星は非常に明るい天体です。

日の出前の東の空に見えるときは「明けの明星」。

日没後の西の空に見えるときは「宵の明星」。

実は同じ金星なのですが、古代世界ではこれが非常に印象的な天体でした。

メソポタミアでは金星は女神イナンナ/イシュタルと強く結びつけられていました。ペンシルベニア大学の古代メソポタミア神研究資料でも、イシュタルの天体としての姿は「惑星・金星」であり、朝の星と夕べの星の両方であったと説明されています。

つまり『チ。』でピャスト伯たちが金星を見上げるはるか昔から、人類はあの異様に明るい星を見て、

「あれはいったい何なんだ」

と考えてきたわけです。

ところが聖書は、その金星を神様として礼拝する方向には行きません。

むしろ、そのイメージを大胆に別の意味へ使います。

「ルシファー」の正体は金星だった?

ここから一気に面白くなります。

旧約聖書イザヤ書14章12節。

有名な言葉があります。

「明けの明星よ、暁の子よ。
どうしてお前は天から落ちたのか」

という趣旨の言葉です。

この「明けの明星」に当たるヘブライ語が、

ヘーレール・ベン・シャハル

です。

一般的には「輝く者、暁の子」「明けの明星」と理解され、伝統的には金星を指す表現とされてきました。実際、オックスフォード大学の旧約研究論文も、これが従来ほぼ一貫して「明けの明星=金星」と解釈されてきたことを紹介しています。ただし近年には別解釈も提示されているので、「絶対に金星」とまでは言い切らない方が正確でしょう。

さて。

この言葉を後にラテン語聖書がどう訳したか。

Lucifer

です。

出ました。

ルシファー。

ゲーム、マンガ、映画ではお馴染みの名前です。

「堕天使ルシファー」。

「魔王ルシファー」。

サブカル好きなら、一度くらい聞いたことがあるでしょう。

ところが。

ここで驚いてください。

ルシファーという言葉は、もともと悪魔の固有名詞ではありません。

ラテン語の lucifer は、

lūx=光
ferre=運ぶ

という言葉からできた、

「光を運ぶ者」

くらいの意味です。

つまり本来は「明けの明星」を表す普通の言葉なのです。

ラテン語訳聖書ウルガタも、イザヤ14章12節でこの語を用いています。

言うなれば、

「明けの明星」

を英語に訳さず、

「ルシファー」

とカタカナ表記したようなものです。

ところが後世、イザヤ14章の「天から落ちた者」というイメージが、悪魔の堕落と結びつけて理解されるようになりました。

その結果、

星の名前だったルシファーが、悪魔の名前のようになっていった。

わけです。

これ、けっこう凄い話です。

しかもイザヤ書は、もともと悪魔の話をしているわけではない

さらにややこしい話をします。

イザヤ書14章を最初から読むと、直接の話題は誰なのか。

バビロンの王です。

14章4節には、バビロンの王に対してこの歌を歌う、とあります。

つまり、

「天まで上ろう」
「神の星々より高く自分の王座を置こう」

と高慢になった王が、

最後には地に落とされる。

その姿を、

空高く輝いていた明けの明星が落ちる姿

に重ねているわけです。

NET Bibleの注解も、14章12~15節の直接的な対象は人間であるバビロン王だと説明しています。

もちろんキリスト教の長い伝統の中では、そこにサタンの堕落を重ねて読む解釈が生まれました。

私はそれ自体を全否定するつもりはありません。

聖書には、一つの歴史的人物を語りながら、その背後にもっと大きな霊的現実を重ねて読む余地のある箇所があります。

ただ、

「イザヤ14章にサタンという天使がいて、その名前がルシファーだと書いてある」

という説明は、かなり雑です。

書いてありません。

聖書を読んだことのない人にとっては意外かもしれませんが、

「ルシファー=悪魔の本名」

というイメージには、かなり後世のキリスト教文化が混ざっています。

ところが新約聖書では「明けの明星」がキリストになる

さて。

ここからです。

悪魔と結びついてしまった「明けの明星」。

では新約聖書ではどうなるのか。

ヨハネの黙示録22章16節。

イエス自身がこう語ります。

「わたしは……輝く明けの明星である。」

なんと。

イエス様が明けの明星です。

え?

さっきルシファーだったじゃん。

悪魔じゃなかったの?

となります。

でも本来、何も矛盾していません。

「明けの明星」はそもそも悪魔専用の称号ではないからです。

夜が終わろうとしているとき、東の空に強烈な光を放って現れ、

「もうすぐ朝が来る」

と知らせる星。

その姿が、

闇の時代を終わらせ、新しい時代をもたらすキリスト

の比喩にぴったりだったわけです。

黙示録22章の「明けの明星」は、一般に金星のイメージと理解されています。

つまり聖書の世界では、

金星そのものが善でも悪でもありません。

誰を、何を象徴するために使われているかが重要なのです。

もっと凄い。「あなたの心にルシファーが昇る」

さらに面白い箇所があります。

第二ペトロ1章19節です。

そこには、

「夜が明け、明けの明星があなたがたの心に昇るまで」

という表現があります。

新約聖書のギリシャ語では、この「明けの明星」に、

フォースフォロス(phōsphoros)

という単語が使われています。

意味は「光を運ぶ者」。

ラテン語のルシファーとほぼ同じ発想の言葉です。

そしてさらに面白いことがあります。

中世ヨーロッパで使われたラテン語聖書ウルガタを見ると、第二ペトロ1章19節は、

lucifer oriatur in cordibus vestris

となっています。

つまり、

「あなたがたの心の中にルシファーが昇る」

です。

どうですか。

クリスチャンが突然、

「皆さんの心にルシファーが昇りますように!」

なんて言い始めたら、

普通は教会役員会が緊急招集されます。

「先生、最近大丈夫ですか?」

と言われます。

でもラテン語としてはおかしくない。

なぜなら、この場合の lucifer は悪魔ではなく、

明けの明星、光をもたらすもの

という普通の意味だからです。

これ、サブカル好きとしてはたまりません。

RPGで完全に魔王名になっている言葉を、昔の聖書では肯定的に使っている。

言葉って面白い。

なぜ同じ「金星」が悪い王にもキリストにも使えるのか

でもここで、神学的にも少し面白いところがあります。

イザヤ14章では、

明けの明星は高く上ろうとして落ちます。

「自分は神のようになろう」

とした者です。

一方、新約聖書では、

キリストが本当の明けの明星になります。

この対比、偶然と片づけてもいいのですが、キリスト教的に読むとなかなか味わい深い。

偽物の明星は、

自分で上ろうとして落ちる。

キリストは逆です。

フィリピ2章によれば、キリストは神の身分でありながら自分を低くし、僕の姿を取り、十字架にまで従いました。

だから神が高く上げられた。

方向が真逆なのです。

「俺は天まで上ってやる!」

というバビロン王は落ちる。

自ら低くなられたキリストが高く上げられる。

そして最終的に、

「わたしこそ輝く明けの明星だ」

と語る。

私はここ、けっこう好きです。

星を神にする世界で、聖書は星を「比喩」にしてしまった

もう一つ面白いのは、古代世界との違いです。

先ほど触れたように、メソポタミアでは金星そのものがイシュタルという神格と結びつけられました。

太陽も神。
月も神。
金星も神。

古代世界では珍しくありません。

ところが聖書は、

星を神にしません。

創世記1章ですら、太陽と月について当時の宗教的な名前を避けるかのように、

「大きな光」
「小さな光」

と表現します。

要するに、

あれ、神様じゃないですよ。照明です。

くらいの勢いです。

めちゃくちゃです。

もとい、古代世界としては相当に大胆です。

その一方で聖書は、星の美しさそのものは否定しません。

むしろその輝きを利用して、

王の高慢を語ったり、
神の約束を語ったり、
キリストを語ったりする。

礼拝はしない。

でも比喩にはする。

これが聖書の天体との付き合い方なのだと思います。

ピャスト伯が見上げた金星を、聖書の人々も見ていた

そう考えると、『チ。』20話の見え方も少し変わります。

ピャスト伯たちが必死になって見ようとしている金星。

もちろん彼らが見ているのは天文学の対象です。

でも、その同じ金星を何千年も前の人たちも見ていました。

メソポタミア人はそこに女神を見た。

イザヤは、天まで上ろうとして落ちる権力者の姿を重ねた。

初期のクリスチャンたちは、夜明けを告げるキリストの姿を重ねた。

そして『チ。』の人々は、

そこに宇宙の仕組みを解き明かす手掛かりを見る。

同じ金星です。

でも、人間はそこにいろんな意味を見てきた。

これだから天文学史と宗教史は面白い。

『チ。』20話を読んで、

「満ちた金星か。地動説の話だな」

だけで終わってももちろんいい。

でも聖書を横に置いてみると、

その金星は、

ルシファーにもなり、キリストにもなる。

そんな2000年以上の文化史までつながっていきます。

魚豊先生がそこまで意図していたかどうかは知りません。

たぶん、ここまで来ると私の勝手な脱線です。

しかし、作品に出てきた一つの単語からこういう寄り道ができる。

それも「チ。を神学してみた」の楽しみ方ということで。

次回はちゃんと原作21話に戻ります。

たぶん。

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