使徒8章26~40節 聖書を読んでもわからないのですが?

使徒8章26~40節 聖書を読んでもわからないのですが?(2026-10-04 礼拝説教) 説教

使徒8章26~40節 聖書を読んでもわからないのですが?

『薬屋のひとりごと』に登場する「宦官」は、古代の宮廷で働いた人を指す言葉です。今朝の聖書にも、エチオピアの女王の財産を管理する宦官が登場します。ただし、この語は宮廷高官という肩書にも使われたため、彼の身体について断定はできません。聖書が描くのは、立派な地位にありながら、御言葉を読んで分からないところを抱えていた一人の人です。彼はエルサレムでの礼拝を終えて帰る途中でした。聖書を手にして、声に出して読んでいても、すぐに意味が分かるわけではありません。私たちにも覚えのあることです。

サマリアの大勢に福音を伝えていたフィリポは、神様に導かれ、寂しい道へ行きます。そこを通る馬車の中で、高官はイザヤ書を朗読していました。前の場面でシモンは聖霊の力をお金で買おうとしましたが、女王の財産を預かるこの人は「手引きしてくれる人がなければ」と、分からないことを認め、フィリポを招き入れます。神様は、この一人の問いを見過ごされませんでした。

彼が読んでいたのは、羊のように苦しめられ、命を奪われる人を描くイザヤ書53章です。「預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか」。フィリポは隣に座り、この箇所からイエス・キリストの福音を伝えました。罪のない主は私たちの罪を負って十字架にかかり、復活されました。聖書の答えは、立派になれば救われるという教えではなく、私たちを救ってくださるこの方にあります。

旧約の申命記には、身体を損なわれた人が主の会衆に加わることを制限する規定があります。一方、イザヤ書56章は、宦官や外国人を神の家へ招き、消えない名を与えると約束します。高官が56章を読んでいたとは書かれていませんし、神殿で拒絶されたとも記されていません。それでも、この約束を心に留めると、彼の「洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」という問いが深く響きます。フィリポは彼に洗礼を授けました。洗礼は立派な人への報酬ではなく、キリストを信じて歩み出す信仰告白です。

高官はフィリポと別れた後も、喜びにあふれて旅を続けました。私たちも「聖書を読んでもわからない」と言ってよいのです。教会は、その問いを恥じさせず、隣に座って一緒に御言葉を読む場所でありたい。分からないという声に耳を傾けることから、福音を分かち合えます。十字架と復活の主は、今も私たちの道に共にいてくださいます。

サムネイルはアルベルト・カイプ作「宦官の洗礼」

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