『チ。―地球の運動について―』原作24話、アニメ10話までのネタバレを含みます。
また、原作の話数に合わせて神学(考察)していきますので、以下の過去作をまだご覧になっていない方はご覧ください。
チ。地球の運動について を神学してみた。|サブカル好きの牧師|note
チ。地球の運動についてを原作に基づいて、週2回くらいのペースで神学(考察)していく予定です。
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独身制なのに、司教に息子がいる?
原作24話では、異端審問の仕事に就く新人修道士たちが、ノヴァクから現場の事情を教わります。その途中で明かされるのが、ある人物は司教の息子だという話です。
ここで、読者も新人たちと一緒に引っかかります。
「ちょっと待って。聖職者って、独身じゃなかったんですか?」
立派な教えと、それを語る側の生活。そのあいだにある隙間を、魚豊先生はさらっと見せてきます。
ところで、日本でも「神父さんは結婚できないけれど、牧師さんは結婚できる」と聞いたことがあるでしょう。どちらもキリスト教なのに、どうして違うのでしょうか。
今回は、本物のキリスト教の牧師である私が、この結婚事情を神学、もとい、教会史も交えて考察してみます。
カトリックは、結婚を悪いことだと思っている?
まず、言わずもがな、作中のC教はキリスト教、とりわけ中世の西方教会を連想させます。ただし、現実の教会史と作品の設定を、そのまま同一視することはできません。
そのうえで押さえたいのは、カトリックの独身制は「結婚は汚れているから、神父はしてはいけない」という説明ではないことです。
むしろカトリックでは、洗礼を受けた者どうしの結婚を「秘跡」の一つとします。秘跡とは、神様の恵みを目に見えるしるしを通して受ける、大切な営みのことです。結婚は、そのくらい重く受け止められています。
では、なぜ神父は独身なのでしょう。
カトリックの説明の中心には、独身であったイエスに倣い、自分の生涯を神様と人々への奉仕にささげる、という考えがあります。特定の家庭を持たず、教会という大きな家族に仕える。その生き方自体を、神の国を指し示すしるしとするのです。
もちろん、「家庭があったら人に仕えられない」という意味ではありません。独身という形にも、特別な献身の意味を見いだしているわけです。
私はプロテスタントの牧師ですから、独身を義務とすることには異なる考えを持っています。それでも、この生き方を選び、誠実に歩んでいる神父さんたちへの敬意は持っていたいと思います。
ところが、ペトロには「しゅうとめ」がいた
聖書を読んだことのない人にとっては意外かもしれませんが、イエスの弟子たちが全員独身だったわけではありません。
代表例がペトロです。カトリックで最初の教皇と位置づけられる、あのペトロです。
マタイによる福音書8章14〜15節には、イエスがペトロの家に入り、熱を出して寝ていた彼のしゅうとめを癒やしたという話が出てきます。
しゅうとめがいるということは、結婚していたということですよね。
さらに、コリントの信徒への手紙一9章5節では、ほかの使徒たちやケファが、信者である妻を連れて歩くことに言及されています。ケファとはペトロの別名です。
教会の指導者について述べるテモテへの手紙一3章2節にも、一人の妻の夫であることが挙げられています。ただし、これを「指導者は必ず結婚しなければならない」という命令と読むのは行き過ぎです。
つまり、新約聖書に描かれた教会には、結婚した指導者がいたのです。
ここから「じゃあ、カトリックは聖書を知らないのか」と結論を急いではいけません。カトリック側も、もちろん承知しています。実はここが興味深いのです。
独身制は、いつから厳しくなったのか
初期の教会には、既婚の聖職者がいました。一方で、古くから禁欲や独身を重んじる伝統もありました。
ここでは「結婚した人が聖職者になること」と、「聖職者になってからも夫婦として生活すること」を分けて考える必要があります。結婚していても、その後は夫婦の性的な関係を控えるよう求められた例があるからです。
したがって、「最初は今のプロテスタントと同じで、ある日突然、結婚禁止になった」と説明するのも単純すぎます。
西方教会では、11世紀の教会改革を経て、1123年と1139年のラテラノ公会議などで規律が強化されました。『チ。』が描く15世紀には、聖職者の独身は、すでに確立した規則だったわけです。
だからこそ、司教の息子という話が、新人たちにとって引っかかるのです。
規則があることと、権力を持つ人もそれに従っていることは、別問題です。この場面を私は、独身制そのものへの批判だけでなく、規則を教える側の責任を問う描写として読みました。
元修道士と元修道女が結婚した
では、プロテスタントはどうしたのでしょう。
ここで登場するのが、宗教改革者マルティン・ルターです。
1525年6月13日、元修道士のルターは、元修道女カタリーナ・フォン・ボラと結婚しました。
元修道士と元修道女の結婚です。現在の私たちが思う以上に、当時は強烈な出来事でした。
ルターたちが問題にしたのは、独身で生きる人がいることよりも、その生き方をすべての聖職者に義務づけることでした。
パウロは、コリントの信徒への手紙一7章で、独身のよさを語ります。しかし同時に、人にはそれぞれ神から与えられた賜物があると述べ、結婚することも認めています。独身の生き方を、全員に一律に命じているわけではありません。
賜物というのは、ざっくり言えば、神様から与えられた、その人に固有の恵みや力のことです。
この理解を背景に、ルター派の信仰をまとめた1530年の「アウクスブルク信仰告白」は、第23条で聖職者の結婚を擁護しました。
『聖書が認めている結婚を、教会の規則によって聖職者から取り上げてよいのか。』ここが争点だったのです。
その後、ルター夫妻には六人の子どもが生まれました。カタリーナは家計や農場、醸造などを担い、学生や客人が集まる生活の場を支えました。
宗教改革は、難しい神学書の中だけで進んだのではありません。食卓や家計や子育てのある暮らしにも、改革の意味が表れていたのです。
実は、カトリックにも妻のいる神父がいる
ここで、もう一つややこしい話を。
「カトリックの神父は、全員必ず独身」と言い切ると、正確ではありません。
一般に日本でよく知られているラテン教会では、司祭の独身が原則です。しかし、東方カトリック教会には、すでに結婚している男性が司祭になる伝統があります。ただし、司教は独身者から選ばれ、叙階、つまり聖職者として任命された後に新しく結婚することは原則として認められません。
また、ほかの教会からカトリックに移った既婚の聖職者が、特別に司祭となる例もあります。
カトリック自身、独身が司祭職の本質から絶対に必要とされるわけではない、と認めています。それでも、司祭にふさわしい生き方として、ラテン教会の原則を守っているのです。
カトリックとプロテスタントの違いは、結婚を大切にするかどうかだけでは説明できません。独身の献身を、聖職に就くための条件とするかどうかに、大きな違いがあります。
結婚しても、独身でも、人間は人間です
さて、現代日本の教会に話を戻しましょう。
プロテスタントの牧師は、一般に結婚できます。家庭生活を通して、家計や子育て、人間関係の難しさを学ぶこともあるでしょう。
しかし、結婚したからといって、それだけで立派な牧師になれるわけでもありません。家庭を持ったなら、家族への責任も生じます。教会の仕事が忙しいからといって、その責任が消えるわけではありません。
また、独身の牧師もいます。「牧師なのに、まだ結婚していないのですか」と周囲が圧力をかけるなら、独身を義務づける制度を退けたはずの教会で、今度は結婚を事実上の義務にしてしまいます。
おんなしことを、反対向きにやらかしてしまうのです。
結婚の有無を、信仰の深さや人間性を測る物差しにしないこと。これは、けっこう肝要です。
『チ。』原作24話の司教の息子という話は、小さな挿話ですが、教会の理想と、それを担う人間の現実を考えさせます。
人々に規則を説く人は、自分の生活について、どのように責任を果たしているのか。
この問いは、中世のC教だけに向けられたものではないでしょう。
天体の運動を描くマンガなのに、こうした教会内部の事情まで織り込んでくる。このマンガ、凄くないですか?
皆さんは、この場面をどう読みましたか?


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