使徒言行録9章1~31節聖書由来の諺 目からウロコが落ちる
導入――そのことわざ、実は聖書から来ています
今朝の御言葉は、使徒言行録9章1節から31節です。「聖書由来の諺 目からウロコが落ちる」と題してお話しします。
「目からウロコが落ちました」。皆さんも、一度は使ったことがあると思います。それまで分からなかったことが、誰かの説明を聞いた途端に分かる。「ああ、そういうことやったんか」。そんなときの言葉です。
ところが、よく考えると不思議ですね。魚のウロコなら分かります。目にウロコがあるなんて、何の話でしょうか。実はこの言葉、新約聖書の今日の箇所から来ています。聖書を読んだことがない人も、聖書から生まれた言葉を使っているのです。
その由来になった人物がサウロです。後にパウロとして、各地に福音を伝えることになる人です。けれども、今日の冒頭では、その正反対のことをしています。イエス様を信じる人を捕まえ、教会を壊そうとしているのです。
今朝は、このサウロの出来事を通して、自分の正しさにしがみつく私たちを、イエス様がどのように救い、新しくしてくださるのか、ご一緒に聞きたいと思います。
1.正しいつもりで、神様に逆らっていた
サウロは、主の弟子たちを脅し、殺そうと意気込んでいました。大祭司の手紙を携えてダマスコへ行き、イエス様に従う人々を捕まえて、エルサレムへ連れ帰ろうとしていたのです。
ステファノの殺害にも賛成していたサウロは、その迫害を町の外へ広げようとしていました。
なぜ、そこまでするのでしょうか。後に本人が語るのは、神様への熱心さです。先祖から受け継いだ信仰を守りたい。本人は、神様のために働いているつもりだったのです。
しかし、神様のためにしているつもりのことが、神様に逆らうことになっていました。
ここは、恐ろしいところです。人は、自分でも悪いと分かっていることだけで、人を傷つけるのではありません。「私は正しい」「相手のためだ」「これが正義だ」。そう思って、相手の声を聞かなくなることがあります。
家庭でも、教会でもそうです。相手のためと言いながら、自分の思いどおりにさせようとする。熱心であるほど、自分のしていることを疑えなくなる場合もあります。
これは、誰か特別に悪い人だけの話ではありません。子どもも、大人も、牧師も、長く教会に来ている人も、みんなこの言葉の前に立たされます。
熱心さと正しさは、同じではありません。私たちの物差しそのものが、曲がっていることがあります。聖書が罪と呼ぶものには、神様から離れて、自分を最後の基準にしてしまう、そういう心も含まれているのです。
自分では間違っていないと思っているのですから、自分の力だけでは、向きを変えられません。
しかし、福音はここで終わりません。
2.イエス様は、敵の名前を呼ばれた
サウロがダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼を照らしました。彼は地面に倒れ、呼びかける声を聞きます。
「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。
彼が相手は誰かと尋ねると、こう答えが返ってきました。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。
サウロは、イエス様は死んだと思っていたはずです。そのイエス様が、生きて語りかけてこられました。弟子たちが語っていた復活は、作り話ではなかったのです。自分が神様の敵だと思っていたイエス様こそ、神様から遣わされた救い主でした。
自分は神様の側に立っている。その確信が、根底から覆されました。
イエス様は、弟子たちへの迫害を御自分への迫害として受け止めておられます。牢に入れられた人。恐れて逃げた人。その苦しみを、主は御自分の苦しみとして引き受けておられたのです。
信仰のためにつらい思いをしている方も、教会で傷ついた方も、あなたの苦しみを主は御存じです。あなたは、主の目から忘れられていません。
そして驚くのは、イエス様が、その迫害者をただ打ち倒して終わらせなかったことです。名前を呼び、罪を明らかにし、そのうえで、次の歩みを命じられました。
サウロが反省したので、主が近づいてくださったのではありません。サウロは、まだ教会を迫害するために歩いていました。その最中に、主が彼を捕らえてくださったのです。
救いは、ここから始まります。私たちの出来のよさからではなく、神様の憐れみからです。
ここを勘違いしないでほしいのですけれども、憐れみとは、罪を見逃すことではありません。人の生活を壊し、命を脅かしたサウロの罪を、主ははっきり指摘されました。
その罪人を救うために、主は十字架にかかられたのです。私たちが神様に背き、人を傷つけた罪の裁きを、御自分の身に引き受けてくださいました。十字架には、罪を裁く神様の正義と、罪人を救う神様の愛が現されています。そして主は、死から復活されました。今、サウロに語りかけているのは、その生きておられる救い主です。
サウロは立ち上がりましたが、目が見えず、人々に手を引かれて町に入りました。人を縛って連れて帰るつもりだった人が、自分の手を引いてもらわなければ歩けなくなったのです。
彼は三日間、目が見えず、飲み食いもしませんでした。11節には、彼が祈っているとあります。自分の正しさを主張していた人が、主に助けを求める人へと変えられていくのです。
3.主が選ばれた器を、「兄弟」と呼ぶ
さて、ここでアナニアという弟子が登場します。主は彼に、サウロのところへ行くよう命じられました。
アナニアは、すぐには納得できませんでした。サウロが信徒を苦しめ、この町にも捕まえに来ていることを、主に訴えます。
無理もありません。「主よ、行き先、間違うてませんか」。そう言いたくなる相手です。自分を捕まえようとしている人のところへ、自分から出向くのですから。
主は、その恐れを聞いたうえで、もう一度、行くよう命じられます。サウロを、外国の人々や王たち、イスラエルの人々に、主の名を伝える者として選んでおられるからです。
アナニアが知っているのは、サウロの過去です。主は、その過去を御存じのうえで、これからの使命を与えておられます。
けれども、過去の罪よりも、キリストの恵みを小さく見積もってはいけません。主は、罪を悔い改める者を赦し、新しい歩みに用いてくださいます。
ただし、その歩みには苦しみもあります。人を苦しめていたサウロが、今度はキリストに従うために苦しみを負います。人生の向きが変わるのです。
アナニアは出かけて行き、サウロに手を置きました。そして、こう呼びかけました。
「兄弟サウル」。
この呼びかけは、何と大きなものでしょうか。主の教会を壊してきた人を、主に結ばれる家族として迎えています。
サウロの目が見えるようになる前に、彼に差し出されたのは、かつて敵だった人の手でした。主は、天からの光だけでなく、一人の弟子の従順と愛を通して、彼を立たせてくださいました。
4.目が開かれ、恵みに身を委ねる
18節で、ついにサウロの目から、うろこのようなものが落ち、視力が戻ります。「目からウロコが落ちる」の由来になった場面です。
聖書が記すのは、実際に視力が戻った出来事です。そして、サウロの心の向きも、大きく変えられていました。
敵だと思っていたイエス様が、自分を救う主でした。捕まえるつもりだった弟子たちが、自分を迎える兄弟姉妹になりました。自分の熱心さを誇っていた人が、キリストの恵みによって生きる人になりました。
そこから、私たち自身の心を覆うものも見えてきます。
「自分は人並みにちゃんとしている。救われる必要なんてない」。そう思っていると、自分の罪が見えません。反対に、「私は失敗しすぎた。神様に愛される資格はない」。そう思い込むと、差し出されている恵みが見えなくなります。
どちらにも、キリストを見ていただきたいのです。主は、私たちの罪のために十字架にかかられ、私たちを新しく生かすために復活されました。自分で自分を救えない私たちを、救ってくださいます。
サウロは立ち上がって洗礼を受けます。洗礼は、キリストを信じ、従って生きるという信仰告白です。水に入る行為が罪を赦すのではありません。キリストの救いを受け取り、主に属する者として歩き出すのです。
サウロは食事をして元気を取り戻し、弟子たちと過ごします。信仰の歩みは、交わりの中で始まりました。
私たち全員に、同じような光や声の体験が必要なわけではありません。静かに信頼が育つ人もいます。大切なのは、体験の派手さではなく、救い主が誰であるかです。皆さんも、イエス様に救いを求めてよいのです。
5.迫害する手が、支えられる手に変わる
サウロは、ダマスコの弟子たちと過ごし、会堂でイエス様が神の子であることを伝え始めました。人々は驚きます。信徒を捕まえに来たはずの人が、その信仰を伝えているからです。
彼が語る中心は、イエス様は誰なのか、ということです。自分の不思議な体験以上に、神様が約束された救い主を伝えているのです。
しかし、その宣教は反対も招きました。やがて、サウロを殺そうとする計画が立てられ、町の門が見張られます。そこで弟子たちは、夜、サウロを籠に乗せ、城壁づたいに降ろして逃がしました。
人々を捕まえる権限を持って町へ来た人が、今は、人々の助けで町から逃れるのです。彼の命を支えるのは、自分が壊そうとしていた教会の人々です。
信仰があれば、助けなど要らないのでしょうか。いいえ。サウロでさえ、人に助けてもらっています。差し出される助けを受け取ることも、新しい生き方なのです。
また、危険から逃れることは、信仰の敗北ではありません。弟子たちは、無理にその場にとどまらせず、彼の命を守りました。主に委ねることは、主が与えてくださる具体的な助けを受け取ることでもあるのです。
6.新しい歩みには、橋を架ける人が必要です
サウロはエルサレムに着き、弟子たちの仲間に加わろうとしました。しかし、皆は恐れ、彼が本当に弟子になったとは信じられませんでした。
これも、無理のないことです。ついこの間まで、サウロはこの町で信徒を捕まえていたのです。「信じるようになりました」と言われても、すぐには安心できません。
そのとき、バルナバが間に立ちました。サウロを使徒たちのところへ連れて行き、彼が主に出会ったこと、ダマスコで大胆にイエス様を伝えたことを説明しました。
バルナバは、主との出会いと、その後の歩みを伝え、交わりへの橋を架けたのです。
ここを丁寧に受け止めたいと思います。神様の赦しは真実です。しかし、人間同士の信頼が回復するには、時間が必要なことがあります。傷つけられた人に、すぐに恐れを捨てなさいと迫ることはできません。罪を悔い改めることには、したことを認め、害をやめ、責任を果たしていく歩みも伴います。
そのうえで、教会は、過去だけで人の将来を閉ざす場所であってはなりません。キリストに救われ、新しく歩み始めた人を、その恵みの中で支える群れでありたいのです。
私たちの信仰にも、教えてくれた人、祈ってくれた人の支えがあるのではないでしょうか。今度は私たちが、初めて来た人に声をかけ、疑問を聞き、一緒に聖書を開くことができます。主は、その小さな働きを用いてくださいます。
エルサレムでも命を狙われたサウロを、兄弟たちはカイサリア経由でタルソスへ送り出しました。ここでも教会に守られています。
最後に、視線は各地の教会へと広がります。教会は平和を得て、主を畏れ、聖霊に慰められながら、建て上げられていきました。
主を畏れ、御言葉に従い、聖霊の励ましと助けを受けて歩む。罪を指摘する御言葉と、罪人を支える恵み。その両方の中で、教会は育ちます。
教会は、完成した人だけの集まりではありません。赦された罪人が、キリストを中心に、共に育てられる場所です。私たちも、その恵みの中にいるのです。
結び――今朝、私たちもキリストを仰ぎましょう
「目からウロコが落ちる」。サウロに起きたのは、救い主との出会いでした。主は彼の罪を明らかにし、赦しの恵みを与え、新しい使命へと導かれました。
自分は正しい。変わらなければならないのは、いつも相手の方だ。そう思っているなら、今朝、主の御言葉に自分を照らしていただきましょう。正しさの陰で見えなくなっていた、人の痛みがあるかもしれません。主の前で認めるべき罪があるかもしれません。
反対に、自分はもう駄目だ。取り返しがつかない。そう思っているなら、罪人のために十字架にかかり、復活されたイエス様を見てください。あなたの罪は小さくありません。しかし、主の赦しは、あなたが思うよりも深いのです。
まだ信仰を持っておられない方も、主に助けを求めてよいのです。立派になってから、祈り始める必要はありません。分からないことを抱えたまま、聖書を開き、キリストを知る歩みを始めてください。
「イエス様、私の罪を赦してください。私のために死に、復活してくださったあなたに、救いを求めます」。そう、自分の言葉で祈り始めてよいのです。
すでに信じている私たちも、主に向き直りましょう。思い込みを正していただき、人の助けを受け取り、誰かを支える者にしていただきましょう。
サウロの名前を呼んだ主は、私たちの罪も、傷も、恐れも御存じです。その主が、恵みによって招いておられます。
復活の主に結ばれる者には、死で終わらない希望があります。主が再び来られるとき、私たちも復活の命にあずかります。その日を望みながら、今日の一歩を、主と共に踏み出しましょう。
この福音を、今朝もう一度受け取りましょう。アーメン。
※サムネイルはピエトロ・ダ・コルトーナ作「アナニアによって視力を回復する聖パウロ」


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