kanrisha

サブカルを神学してみた

スパイファミリー「プロジェクト〈アップル〉」を神学してみた。

この作品には、エリート校イーデン校(Eden)という、旧約聖書の「エデンの園」を思わせるキーワードが出てきました。そして、その校章に“禁断の果実”として描かれがちなリンゴがモチーフになっている、という話は前回しました。ところが、リンゴがらみのキーワードはそれだけではありません。
説教

創世記49章8~12節 年十二回で学ぶ創世記 ヤコブの預言 

創世記は「初めに」で始まる起源の書ですが、その最初からキリスト預言が散りばめられています。その流れのクライマックスが49章、ヤコブが12人の息子に祝福を告げる場面、とくにユダへの言葉です。本来長子ルベンに与えられるはずの主権が罪のゆえに退けられ、四男ユダに移されます。「ユダよ、あなたはほめたたえられる」「あなたの父の子らは、あなたの前にひれ伏す」と語られ、王家がユダから出ることが示されます。「ユダは若い獅子」という表現は、力ある王の象徴であり、やがて「ユダ族から出た獅子」と呼ばれるキリストを指し示します。
教会と国家

キリスト者は共産主義あるいは共産党を支持してよいのか?(3)聖書神学的考察 原始教会とイエスの言葉を端緒として

サムネイルはカールブロッホ作山上の垂訓題 この世のユートピアではなく、来るべき御国に生きるⅠ.原始教会は「共産主義」だっ...
教会と国家

キリスト者は共産主義あるいは共産党を支持してよいのか?(2)歴史神学的考察 フォイエルバッハの系譜を糸口として

ある人は、共産主義=神はいない、と考える立場、キリスト教=神を信じる立場と分けて全くの別物だといい、共産主義に反対します。(この立場を反共主義といいます。)また、ある人は共産主義もキリスト教も平和運動をし、格差社会に反対するので、似た者同士だと共産主義を容認してしまっている人も一部にいます。(この立場を容共主義といいます。)はたしてどちらが正しいのでしょうか?共産主義思想誕生に寄与したある神学者、人間学者フォイエルバッハを糸口にして考えていきます。
説教

詩編104編25~35節 収穫感謝礼拝 全てのものを養われる神様に感謝しよう

収穫感謝礼拝は、私たちの食卓に並ぶ米やパン、野菜や果物、肉や魚、そのすべての背後におられる主を覚える日です。詩編104編は、光、天、海、山、泉、草、家畜、人間、海の生き物に至るまで、天地万物を造り、今日も養っておられる神を賛美します。雨や太陽、土の力、成長の過程すべてを導いておられるのは主であり、私たち自身のいのちもまた、主の御手の中に保たれています。
教会と国家

キリスト者は共産主義あるいは共産党を支持してよいのか?(1)組織神学的考察 カール・バルトの言説から紐解いて

現代に生きるキリスト者が政治的立場を考えるとき、信仰と政治が全く別の問題であるとは言い切れません。信仰は人の価値観、人生観、倫理観に深く浸透し、政治的判断にも大きく影響を与えるものです。したがって、クリスチャンが特定の政治思想や政党を支持することについて考えることは、決して無意味でも場違いでもありません。では、キリスト者は共産主義あるいは共産党を支持してよいのかという問いはどうでしょうか。この問いは単なる政治的選択を超えて、「世界観と宗教観の衝突」という深い問題を含んでいます。
説教

ルカの福音書 22章39~46節 神の正義と神の愛のパラドックス

本日の御言葉はルカ22章39〜46節、オリーブ山での主イエスの祈りです。ルカは他の福音書と違い、「ゲッセマネ」という地名を書かず、「オリーブ山」「いつもの場所」とだけ記します。それは、この祈りが一度きりの出来事で終わらず、すべての時代の弟子に共通する「信仰の戦い」「祈りの模範」として、私たち一人ひとりの歩みに重ねられるためだと言われています。
説教

創世記44~45章 年十二回で読む創世記 ヨセフ物語後編

創世記44~45章は、ヨセフ物語の頂点であり、神の救いの原型が輝く場面です。ここで中心に立つのは、意外にも兄ユダです。かつてヨセフを銀二十枚で売り飛ばすことを提案した彼が、今度は弟ベニヤミンのために自分の身を犠牲にしようとします。ヨセフが仕掛けた試みの中で、銀の杯がベニヤミンの袋から見つかり、彼が奴隷にされようとしたとき、ユダは一歩前に出て訴えます。「どうか、このしもべを少年の代わりに奴隷として残し、少年を父のもとに帰らせてください」(創44:33)。これは、自己中心な男が他者のために命を差し出そうとする決定的な変化でした。神がその心を砕き、悔い改めの器へと造り変えられたのです。ユダのこの姿は、やがて十字架にかかられるイエス・キリストの予型です。主もまた、罪人の代わりに自らをささげられました。
説教

ヨハネ14章1~3節 父の家でまた会いましょう

今日は昇天者記念礼拝です。私たちは愛する人を思い起こし、悲しみと感謝の中で神の前に立ちます。別れはいつも胸に痛みを残しますが、イエス・キリストは弟子たちにこう語られました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。わたしの父の家には住まいがたくさんあります。」――これは、「別れは終わりではない」という慰めの約束です。
お知らせ

2025年11月2日は永眠者記念礼拝を行います。

主の御名を賛美します。酷暑と言われる長い長い夏が終わり、ようやく秋を感じる時季となりました。皆様いかがおすごしでしょうか...