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教会と国家

自由で開かれたインド太平洋を神学してみた

「海は誰のものか」。この問いは、古いようでいて、実はきわめて現代的な問いです。今日、日本を含む多くの国々は「自由で開かれたインド太平洋」という言葉を用いています。けれども、その根底にある問いは意外なほど単純です。海は、力ある国が囲い込んでよいものなのか。それとも、国々の共有の通路として開かれているべきものなのか。この問いに、近代の初めに大きな答えを出した人物が、フーゴー・グロティウスです。日本では「国際法の父」と呼ばれることが多い人物です。彼は単なる法律家ではありません。オランダの人文主義者であり、法学者であり、外交官であり、そして神学者でもありました。しかも彼はプロテスタント教徒でした。その彼が、カトリック帝国による海の独占を批判し、「海は自由である」と主張したのです。
説教

使徒 2章22~42節 十字架につけられた人が救い主?!

皆さん、「救い主」と聞いて、どんな人を思い浮かべるでしょうか。強い人。負けない人。悪を倒す人。最後には大逆転する人。映画でも漫画でも、ヒーローというのはだいたいそうです。倒れそうになっても、最後は立ち上がる。敵を打ち破る。拍手喝采を浴びる。ところが、聖書が語る救い主はどうでしょうか。十字架につけられた人です。これは当時の人々にとって、信じがたいことでした。十字架刑は、ただ死ぬ刑罰ではありません。ローマ帝国が見せしめとして行う、最も恥ずべき処刑でした。「この者は負けた」「この者に従う者も同じ目に遭うぞ」と世にさらす刑罰です。ですから、「十字架につけられた人が救い主です」と言うのは、普通に考えれば無茶な話です。今日の説教題の通りです。
説教

マルコ5章1~20節 墓場から家へ、社会を変える福音

今朝、私たちに与えられている御言葉は、少し不思議で、少し怖くて、しかし最後には深い慰めに満ちた物語です。ゲラサ人の地方で、悪霊に取りつかれていた一人の人が、主イエスによって救われる物語です。この人は、墓場に住んでいました。家ではありません。町でもありません。人の生活の場ではなく、死者のいる場所です。しかも、彼は鎖でつながれていました。足枷もはめられていました。しかし、彼はその鎖を引きちぎり、足枷を砕いてしまう。人々は彼を恐れました。家族も、近所の人も、村の人も、どうしてよいか分からない。どうにもできない。だから、彼を墓場に追いやったのです。これは、ただ「昔は精神病の理解がなかった」という話だけではありません。もちろん、現代の私たちは、病を悪霊と短絡的に結びつけてはいけません。心の病、発達の課題、依存症、孤独、トラウマ、そういうものに苦しむ人を、「信仰が足りないからだ」「悪霊のせいだ」と決めつけることは、福音ではなく暴力です。
時事問題

福音派は本当に危険なのか?

一酸化二水素(ジハイドロジェン・モノオキサイド)という物質をご存じでしょうか。この物質は、吸い込むと人を死に至らせることがあります。気体になれば皮膚に深刻な火傷を負わせ、固体になれば交通事故や転倒事故の原因にもなります。金属の腐食を進め、建物や橋、車の劣化にも関わります。農薬散布や工業排水にも含まれ、原子力施設でも大量に使われています。しかも、河川にも雨にも食品にも、そして人間の体内にも存在しています。
説教

使徒2章1~13節 ペンテコステー教会の誕生日

今日はペンテコステです。よく「教会の誕生日」と言われます。誕生日というと、ケーキがあって、ろうそくがあって、プレゼントがあって、「ハッピーバースデー」と歌います。けれども教会の誕生日は、少し不思議です。ろうそくを吹き消すのではなく、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまりました。プレゼントをもらうのではなく、聖霊という神からの賜物が与えられました。そして「おめでとう、教会」と祝うだけでなく、「さあ、出て行って福音を語りなさい」と送り出される日でした。
サブカルを神学してみた

ワンピース「うそつきノーランド」を神学してみた

世界で最も読まれている漫画の一つが何か、ご存じでしょうか。尾田栄一郎さんの『ONE PIECE』です。全世界累計発行部数は6億部を突破しており、ギネス記録も樹立しています。もはや単なる「海賊漫画」ではありません。現代人の想像力を形づくる、巨大な冒険神話と言ってよい作品です。その『ONE PIECE』の空島編に、「うそつきノーランド」として後世に名を残した人物が登場します。正式には、モンブラン・ノーランド。北の海ルブニール王国の探検船提督であり、優れた植物学者でもあった人物です。彼は黄金郷を見ました。しかし、それを証明できなかった。そのため後世には、黄金郷を見たと嘘をついた男として語り継がれることになります。
時事問題

それは本当に全部イスラエルの責任なのでしょうか?報じられないパレスチナ自治政府の腐敗

先週、パレスチナ自治政府、(略称PA)の中心勢力であるファタハで、マフムード・アッバス氏が再び議長に選ばれました。正確に言えば、これはPA大統領選挙での再選ではありません。PAの主流派の政党ファタハの議長としての再選です。しかし、むしろそこにこそ問題の根深さがあります。アッバス氏は現在90歳です。90歳といえば、日本で言えば森喜朗元首相や二階俊博元自民党幹事長に近い世代です。政治家として経験豊富というより、普通なら「そろそろ後進に道を譲るべきではないか」と問われる年齢です。
説教

文字のない本が語る福音

文字のない本は、難しい本ではありません。しかし、福音の道筋をはっきり語っています。黒。私たちは罪人です。赤。キリストが十字架で死んでくださいました。白。信じる者は赦され、きよめられます。青。救われた者は洗礼によって信仰を告白します。緑。神の恵みの中で成長していきます。金。やがて神の御国で、主と共に生きます。
お知らせ

明日は野外礼拝です。いつもの礼拝堂では礼拝がありません。ご注意ください。

明日は野外礼拝です。いつもの礼拝堂では礼拝がありません。また、大人とこどもの合同礼拝も、おとなの礼拝と一緒に10時半から教会学校で行います。ご注意ください。
説教

ルカ15章11~32節 父の家に入らない兄息子

今日、私たちに与えられている御言葉は、いわゆる「放蕩息子のたとえ」です。教会に長く通っている方なら、何度も聞いたことがあるかもしれません。教会学校でもよく語られる箇所です。ある人は、この物語を「聖書の中の真珠」と呼びました。それほど美しく、それほど深く、それほど福音そのものを語っている箇所です。しかし、このたとえを何度も聞いていると、私たちはつい思ってしまいます。「ああ、あの話ね。財産をもらって家を出た息子が、失敗して帰ってくる話でしょう。そして父が赦してくれる話でしょう」と。もちろん、その通りです。けれども、この話はそれだけではありません。実は、この物語の最後で、家の外にいるのは、放蕩した弟ではありません。家の外に立っているのは、まじめで、正しくて、ずっと父の家にいたはずの兄なのです。今日は、この有名な「放蕩息子」のたとえを、特に「兄息子」にも目を向けながら聞いていきたいと思います。