出エジプト記3章4章 年十二回で学ぶモーセ五書 モーセの召命
今週の聖書は出エジプト記3:1–15、モーセの召命です。私たちは「出エジプト」と聞くと、映画『エクソダス』のような大災害級の出来事や、海が割れる派手な場面を思い浮かべがちです。しかし聖書が最初に描く神の現れは、荒野の片隅の小さな柴でした。柴が燃えているのに燃え尽きない出来事は、神が私たちの“日常のただ中”に割り込み、取るに足らないものを用いてご自身を示される方であることを教えます。
モーセが「なぜ燃え尽きないのか」と近づくと、神は名を呼びかけます。「モーセよ、モーセよ」。神は人を番号や役割でなく、名によって呼ぶ関係の神です。けれど同時に「ここに近づくな。履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる地だ」と語られます。神は近い方ですが、軽く扱える方ではありません。靴を脱ぐとは、罪、言い訳、自己正当化、プライドといった“埃”を神の前に持ち込まず、へりくだって立つことです。
さらに神は、イスラエルの苦しみを「見た・聞いた・知っている」と言い、「わたしは下って来た」と宣言されます。救いは人が神に上っていくことからではなく、神が降りて来られることから始まります。そして神はモーセを遣わしますが、根拠はモーセの能力ではなく「わたしは必ずあなたと共にいる」という同伴です。
モーセが神の名を問うと、神は「わたしはある」(ヤハウェ、YHWH)と名乗られます。状況に左右されず、変わらず、今ここに“いる”神。召命の中心は「私が何者か」より「神が誰であるか」です。私たちも自分の無力さに閉じこもるのではなく、共にいてくださるヤハウェに信頼して歩みたい。神はキリストにおいてさらに深く「下って」来られ、十字架で私たちを救いへ導かれました。
※サムネイルはドメニコ・フェッティ作「燃える柴の前のモーセ」


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