ルカの福音書23章39~43節 イエスと共に十字架につけられた二人の強盗

ルカの福音書23章39~43節 イエスと共に十字架につけられた二人の強盗(2026-03-15 礼拝説教) 説教

ルカの福音書23章39~43節 イエスと共に十字架につけられた二人の強盗

聖書:ルカの福音書23章39~43節

みなさん。私はこれまで何度も、少し誤解されやすい言い方をあえてしてきました。
「教会に行くから救われるのではない。聖書をたくさん読むから救われるのでもない。祈りが長いから救われるのでもない。救いは、ただイエス・キリストを信じることによるのだ」と。

こう言うと、「そんな単純な話でいいのですか」と思う方がおられます。
いや、私も気持ちは分かります。人間の感覚からすると、救いというのは、もう少し難しくて、もう少し厳しくて、もう少し実績が必要なものに思えるからです。礼拝出席何回、奉仕何年、献金いくら、祈祷会参加率何%、そういうものがあって、ようやく合格するのではないか。そんなふうに思ってしまう。

でも、聖書はそうは言いません。
聖書は、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」(エフェソ2章8~9節)と語ります。

そして、そのことを、教理の説明だけではなく、ひとりの実例をもって示しているのです。
その実例こそ、イエス様が十字架につけられたとき、その両側にいた犯罪人のうちのひとりです。

この人ほど、「何もできなかったのに救われた」ことをはっきり示す人はいません。
教会に通い続けたわけではない。洗礼を受けたわけでもない。十字架の上ですから、これから人生を立て直して、善行を積むこともできない。奉仕もできない。献金もできない。証しもできない。聖書通読もできない。まさに人生のラスト数時間、いや数十分というところで、ただイエス様の方を向いただけです。
それなのに、この人は、主ご自身から「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と約束されたのです。

今日は、この箇所から、「信じるだけで救われる」ということの重みと、同時に「だからこそ、今すぐ信じることがどれほど尊いか」をご一緒に見たいと思います。

まず、この犯罪人がどんな人だったのかを確認しましょう。
聖書は彼を「犯罪人」と呼びます。昔の訳では「強盗」と訳されました。十字架刑に処せられているわけですから、軽犯罪ではありません。ローマ帝国が十字架刑を科すのは、反逆や凶悪犯罪など、社会秩序を乱す重大な罪に対してでした。つまり、この人は、「ちょっと人生を踏み外した人」程度ではない。社会的にも、法的にも、もう裁かれて当然だと見なされていた人です。

それに対して、真ん中におられるイエス様はどうだったか。
イエス様は、何ひとつ罪を犯されなかったお方でした。警察沙汰になるような犯罪(crime)をしていない、という意味だけではありません。神の前においても、人の前においても、罪(sin)なきお方でした。ペテロは後に、「この方は罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった」(第一ペテロ2章22節)と証言しています。

にもかかわらず、イエス様は十字架につけられました。
なぜか。ローマ総督ピラトでさえ、この人に死刑相当の罪を見出せなかったのに、政治的理由と宗教的妬みによって、無実の方が十字架に追いやられたのです。

しかも、その十字架の下では、人々がイエス様を見世物にしていました。
「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(ルカ23章35節)。
兵士たちも、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と侮辱しました(ルカ23章37節)。

彼らの言葉には、皮肉のようでいて、逆に真理が混じっています。
「他人を救ったのだ」。その通りなのです。イエス様は他人を救うことがおできになる。だから、ご自分を救うこともおできになった。イエス様は本気を出せば、十字架から降りることなど簡単にできたのです。主ご自身がゲツセマネで、「わたしが父にお願いすれば、父はすぐに十二軍団よりも多くの御使いを遣わしてくださらないとでも思うのか」(マタイ26章53節)と言われました。

天の軍勢を呼び寄せることもできた。
十字架につけた者どもを一瞬でさばくこともできた。
でも、そうなさらなかった。

なぜですか。
それは、私たちの罪を贖うためです。
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるためなのです」(マルコ10章45節)。
また、「キリストは、罪についてただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちの身代わりになられたのです」(第一ペテロ3章18節)。
イエス様は、自分を救えないから十字架にいたのではなく、私たちを救うために、あえてそこにとどまられたのです。

だからこそ、主は十字架の上で、自分を罵る者たちに向かってさえ、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈られました(ルカ23章34節)。

みなさん、この祈りはすごいですよ。
口先のきれいごとではありません。説教壇の上での理想論でもありません。手足に釘を打たれ、呼吸するだけでも苦しい、その苦しみのど真ん中で、主は人を呪わず、とりなしをされた。ここに、この方が本当に神の御子であり、まことの救い主であることが現れています。

そして、この姿を、両側の犯罪人も見ていたのです。

ルカは、二人のうち一人がイエス様を侮辱したと記しますが、マタイはさらに踏み込んで、「一緒に十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった」(マタイ27章44節)と記しています。つまり、最初は二人とも同じだったのです。二人とも罵っていた。二人ともイエス様に背を向けていた。

でも、そのうち一人が変わった。
なぜ変わったのか。
十字架の主の姿に打ち砕かれたからです。

彼は、もう一人の犯罪人にこう言います。
「お前は神をも恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だが、この方は悪いことを何もしていない」(ルカ23章40~41節)。

ここに、救いに至る悔い改めの中身があります。
第一に、神を恐れること。
第二に、自分の罪を認めること。
第三に、イエス様の無罪と正しさを認めること。
そして第四に、この死にゆくイエス様の向こうに、なお「御国」があると信じることです。

この犯罪人は続けて言います。
「イエス様、あなたが御国においでになるときには、私を思い出してください」(ルカ23章42節)。

これ、すごい信仰告白です。
目の前にいるのは、血を流し、侮辱され、今にも息を引き取ろうとしている男です。普通なら、「この人ももう終わりだ」と思うでしょう。ところが彼は、その十字架の向こうに王国を見た。この方は今死ぬ。しかしそれで終わりではない。この方には御国がある。この方は王である。だから、私を覚えていてください、と願ったのです。

神学の言葉を並べたわけではありません。
洗礼神学を説明したわけでもありません。
信仰告白書を暗唱したわけでもありません。
でも、彼はイエス様に向きました。
自分の罪を認め、イエス様の正しさを認め、その方に望みをかけた。
それで十分だったのです。

そして主は答えられました。
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいます」(ルカ23章43節)。

ここに福音があります。
「今日」―先延ばしではない。
「わたしと一緒に」―場所だけでなく、主との交わりです。
「楽園にいます」―希望ではなく、約束です。

この人は、滑り込みで救われたように見えるかもしれません。
受験で言えば、合格最低点ぎりぎり、と思うかもしれません。
でも大事なのは、この人が「救いの最低ライン」を示しているのではなく、「救いの本質」を示しているということです。
救いの本質は、行いの総量ではなく、イエス・キリストへの信頼です。

ですから、逆に言えば、もう一人の犯罪人が救われなかった理由も、罪が重かったからではありません。二人とも同じように罪人です。
違いは何か。
向きです。
一人は最後までイエス様を利用しようとした。「お前はメシアではないか。自分とおれたちを救え」と。これは悔い改めではありません。都合のいい奇跡だけを求める態度です。
しかし、もう一人は、自分を救う資格がないことを知った上で、ただ憐れみを求めた。

この違いは大きい。
理解度の差ではありません。知識量の差でもありません。
ベクトルの差です。
顔がイエス様の方を向いているかどうかです。

イエス様は、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(ヨハネ3章14~15節)と言われました。これは民数記21章8~9節の青銅の蛇の出来事を踏まえています。毒蛇にかまれた者は、自分で毒を抜けない。走って医者にも行けない。ただ神が備えられた救いを見上げるだけです。見上げた者は生きる。見上げなければ死ぬ。

十字架も同じです。
イエス様の方を向く者は救われる。
向かない者は救われない。
聖書ははっきり、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」(使徒4章12節)と語ります。

だから、天国に裏口入学はありません。
コネもありません。
不正入学もありません。
でも、正規ルートは、だれにでも開かれています。イエス様です。
そしてこの門は、立派な人のためではなく、罪人のために開かれているのです。

ここで、信仰生活の長い方のためにも一言言っておきたいのです。
この犯罪人が信じただけで救われたからといって、「じゃあ教会なんか行かなくていい、祈らなくていい、洗礼もいらない」と開き直るのは、話が違います。
救いの根っこは、確かに信仰だけです。
でも、救われた人には実がなります。
礼拝、祈り、聖書、洗礼、奉仕は、救われるための点数稼ぎではありません。救われた者に与えられる恵みの道具です。
根っこではない。しかし実りです。
エフェソ2章10節は、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」と語ります。
だから、教会に集うことも、祈ることも、御言葉に聞くことも、救いの条件ではないけれど、救われた者の喜びなのです。

そしてもう一つ。
この犯罪人は、確かに救われました。主ご自身が保証してくださったのですから、そこに疑いはありません。
しかし、私は時々思うのです。彼は天国で何を思っているだろうか、と。
「ああ、もっと早くイエス様を信じていたらよかった」と思っているのではないか。

私は若いころ、この犯罪人のような救い方に、ちょっと憧れたことがありました。
死ぬ直前まで好き勝手して、最後の最後に「イエス様、信じます」と言って滑り込む。いわば人生のラスト5秒で逆転ゴールです。実際、コンスタンティヌス大帝が死の直前に洗礼を受けたという話もあります。

でも、今は違います。
それは、いちばんもったいない生き方です。
なぜなら、天に宝を積めるのは、この地上で生きている間だけだからです。
主は言われました。「自分のために、天に宝を蓄えなさい」(マタイ6章20節)。
またパウロは、救われた人でも、その働きが火で試されることがあり、「その人自身は救われますが、ただ火の中をくぐるようにしてです」(第一コリント3章15節)と言います。

救いは恵みです。報酬ではありません。
でも、救われた後の歩みには、報いがあります。
主のために生きた歩みは、主が決して忘れないのです。

ですから、この犯罪人は、楽園で後悔しているとしたら、地獄に落ちるかもしれないという後悔ではなく、「こんなにすばらしい主なら、もっと早く知りたかった。もっと早く従いたかった」という、愛の後悔ではないでしょうか。

みなさん。
信じるだけで救われます。
これは安っぽい言葉ではありません。十字架の血で裏打ちされた、聖書のど真ん中の真理です。
だから、今までの人生がどうであったとしても、遅すぎることはありません。
今日、この場で、イエス様の方を向くなら、主はあなたを退けません。

同時に、もうすでに信じている方には申し上げたい。
だったらなおさら、主に従うことを先延ばしにしないでほしい。
礼拝を大事にしてほしい。
祈りを大事にしてほしい。
御言葉を大事にしてほしい。
奉仕を大事にしてほしい。
それは点数稼ぎではありません。救われた者にだけ分かる特権だからです。

十字架の両側に、二人の犯罪人がいました。
二人とも主の近くにいた。
でも、一人は救われ、一人は救われなかった。
近くにいることと、向いていることは違います。
教会の近くにいても、宗教の近くにいても、十字架の近くにいても、主に向かなければ救いにはならない。
しかし、どれほど遠回りした人生でも、主に向けば救われるのです。

ですから今日、主の前に出ましょう。
「主よ、私を思い出してください」と。
それで十分です。
その祈りに、主は今も答えてくださいます。

「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいます。」

この約束に、私たちの救いの確かさがあります。

サムネイルはピーテル・パウル・ルーベンス作『二人の強盗の間の十字架上のキリスト』

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