ルカ23章44~49節「死を見て見ぬふりする日本文化の中で」
日本では、「死」をなるべく連想しないようにする文化があります。たとえば「四」は「死」を思わせる忌み数として、病院の病室番号や銭湯の下駄箱、住宅の部屋番号などで避けられることがあります。しかし、死を避けて考えないようにしても、死そのものがなくなるわけではありません。キリスト教はむしろ、死を真正面から見つめます。だからこそ「メメント・モリ(死を覚えよ)」という言葉も生まれました。死を見つめることは暗くなるためではなく、まことの希望に向かうためです。
聖書は、人間が本来、神と共に生きるために造られたと語ります。エデンの園は、悲しみも悪もない、神が共におられる素晴らしい場所でした。しかし人は神に逆らい、罪によって神との交わりを失いました。その結果、神の臨在に自由に近づくことができなくなりました。エデンの園の門にケルビムが置かれたように、幕屋や神殿でも至聖所の前には垂れ幕が掛けられ、そこにはケルビムが織り出されていました。それは「神と共に生きるのは素晴らしい。けれども罪があるままでは入れない」という、目に見えるしるしでした。
レビ記には、神の前に勝手な仕方で近づくことの厳しさが語られています。アロンの子らは定められた方法によらずささげ物をし、打たれて死にました。また大祭司でさえ、年に一度、定められた仕方と犠牲の血によってしか至聖所に入れませんでした。長い間、垂れ幕は「罪があるから入れない」と語り続けていたのです。
しかし、神の御子イエス・キリストが人となって来られました。主は罪なき方として神に従い、ついには十字架で死なれました。そのとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けました。これは、イエス様の死によって罪の隔てが取り除かれ、神への道が開かれたことを示しています。私たちの罪も悲しみも、主と共に十字架につけられたのです。
死を見て見ぬふりするのではなく、十字架の死を見つめましょう。そこに、死を通して死を打ち破り、私たちを神のもとへ招いてくださる救い主がおられます。「神様と共に生きるのは素晴らしい」。その道を、イエス様がご自分の死によって開いてくださいました。だから私たちは今、「イエス様、ありがとうございます」と告白しつつ、神と共に生きる新しい歩みへ招かれているのです。
※この説教は「そのとたれまくと十字架」という絵本からインスピレーションをうけて作りました。


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