ルカ24章13~35節 エマオの途上 私たちの心がたぎる時

ルカ24章13~35節 エマオの途上 私たちの心がたぎる時(2026-04-12 礼拝説教) 説教

ルカ24章13~35節 エマオの途上 私たちの心がたぎる時

要約

ルカ24章13~35節のエマオ途上の物語は、実は少し変わった語り方をしています。普通なら「誰が何をしたか」を最初から順に明かしますが、この箇所では、読者はすでに復活の事実を知らされているのに、登場人物の二人だけがそれを知らないまま歩いています。いわば倒叙形式であり、ヒッチコックの映画や『古畑任三郎』、『刑事コロンボ』のように、結末の鍵を先に示しながら、人物がそこにどう導かれるかを見せる構造です。しかもエマオには複数の候補地がありますが、ルカの記す「六十スタディオン」という距離から、今回はエルクベベ説をとります。失意の弟子たちは、エルサレムから離れるその道で、すでに復活の主ご自身と出会っていたのです。

けれども二人は、出来事を知っていても、その意味が分かっていませんでした。そこで主イエスは聖書全体から、ご自分について解き明かされます。もしこのとき主が語られた中に創世記3章15節と詩編22編が含まれていたとするなら、実に印象深いことです。創世記3章15節には、女の子孫が蛇の頭を砕くという、最初の福音の約束があります。また詩編22編には、見捨てられたような苦しみの中にある義人の叫びがありながら、最後には賛美と勝利へと開かれていきます。つまり聖書全体は、メシアが苦しみを通して勝利し、死を打ち破って栄光に入られる道を指し示していたのです。十字架は失敗ではなく、復活へ至る神のご計画の中にありました。

そして二人は、パンを裂かれたとき、そのお方が主であると知りました。その後で彼らは「あの方が道で話しておられるとき、聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合います。イースターの恵みとは、ただ墓が空だったと知ることではありません。復活の主が今も私たちに近づき、みことばを開き、冷えた心をたぎらせてくださることです。主に出会った者は、失望の道から立ち返り、再び教会へ、再び証しへと向かいます。私たちの心もまた、復活の主によって燃やされたいのです。

サムネイルはロバート・ツント作『エマオへの道』

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