ヨハネ20章24~31節 遅れてやってきたイースター

説教

導入――イースターは、みんな同じ時に来るとは限らない

イースターというのは、普通なら、みんなで一斉に「ハレルヤ」と言う日です。キリストが復活された、死に勝利された、希望が始まった、そういう喜びの日です。

けれども実際には、イースターは、すべての人に同じ速さで来るとは限りません。ある人には朝早く来る。ある人には夕方に来る。ある人には一週間遅れて来る。

今日の箇所は、まさにその話です。

トマスにとってのイースターは、ほかの弟子たちより少し遅れてやってきました。ヨハネ20章は、主イエスが「週の初めの日」の夕方に弟子たちに現れ、その八日の後に、今度はトマスのいるところに再び現れられたことを記しています。

この箇所を読むと、私たちはつい「疑い深いトマス」という見出しだけで読んでしまいがちです。もちろんトマスの不信仰は、この箇所の大きなテーマです。

しかし今日は、もう一つ別のことを見たいのです。

それは、弟子たちが共に居続けたということです。

今年度の年間主題は、詩編133編1節の「共に」です。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」

この御言葉を、今日のヨハネ20章の部屋の中に重ねて見たいのです。

1.信じ方が違っても、弟子たちは「共に」いた

あの部屋の中は、決してきれいな空気ではありませんでした。

ユダはもういません。ペトロは三度主を知らないと言ってしまいました。他の弟子たちも逃げました。

しかも今度は、復活について意見が割れているのです。

十人は「私たちは主を見た」と言う。

けれどもトマスは「私はこの目で見て、この手で確かめなければ決して信じない」と言うのです。

普通なら、そこで群れは割れます。

「お前だけなんで信じへんのや」となる。

「みんな、熱くなりすぎやろ」となる。

教会でもそうです。みんなが感動しているときに、自分だけ感動できない。みんなが「主は生きておられる」と言うときに、自分だけ「ほんまか」と思ってしまう。そうなると、人は群れから離れたくなります。

けれども、今日の弟子たちは、そこですぐにはバラバラにならなかったのです。

ユダを失った十一人の群れは、最初の夕べにはトマスを欠いて十人でしたが、それでも群れそのものは壊れませんでした。そして八日の後には、トマスもまたその中にいました。

つまり、復活について温度差があり、反目が起こってもおかしくない中で、なお彼らは共に居続けたのです。

ここに、年間主題「共に」の大切な姿があります。

「共に」というのは、何もかも意見が一致しているという意味ではありません。

信仰の熱量が同じ、理解の深さが同じ、感情の動きが同じ、そういうことではありません。

むしろ聖書の「共に」は、違いがあり、弱さがあり、つまずきがあり、場合によっては気まずさまである、それでもなお主の前に一緒にいる、ということです。

ペトロとトマスは違ったでしょう。ヨハネとトマスも違ったでしょう。

ある人はもう喜んでいる。ある人はまだ疑っている。

それでも同じ部屋にいる。

これが教会です。

私たちは、「信じてから来なさい」と思ってしまうことがあります。

けれども福音はそうではありません。

「分かってから来なさい」でもない。

「ちゃんとした顔になってから来なさい」でもない。

主は、分からない者、遅れている者、まだ信じ切れていない者をも、群れの中で取り扱ってくださるのです。

トマスは信じられなかった。

しかし彼は、弟子たちとの交わりを完全には捨てなかった。

ほかの弟子たちもまた、トマスを切り捨てなかった。

この「共に」があったからこそ、トマスは次の日曜日に主と出会うことができたのです。

2.疑っているトマスのところへ、主は来てくださる

ここで私は、トマスをただ責めることはできないと思うのです。

この人は、正直な人です。

分からないのに分かったふりをしない。信じられないのに信じている演技をしない。

教会の中には、ときどき「信仰深いふり」があります。

苦しいのに苦しくない顔をする。

祈れないのに祈れる顔をする。

ほんまは心の中で神さまに怒っているのに、きれいな言葉だけ並べる。

でもトマスは違いました。

「私は信じない」と言った。

これは立派な言葉ではありません。しかし、正直な言葉です。

そして、考えてみれば、トマスの疑いの背後には、主イエスへの深い愛があったのだと思います。

主を愛していなかったら、あそこまで傷つきません。

期待していなかったら、あそこまで失望しません。

十字架で死なれた主を見て、心が壊れてしまったからこそ、「そんな簡単には信じられない」と言ったのです。

私たちもそうではないでしょうか。

人生の中で深く傷ついた人ほど、簡単には「神さまはおられる」と言えないことがあります。

ほんまにしんどかった人ほど、軽く「ハレルヤ」とは言えないことがあります。

でも、そのトマスのところへ、主は来てくださるのです。

八日の後、弟子たちがまた家の中におり、トマスも一緒にいた

ここが福音です。

遅れた人にも、主は来てくださる。

乗り遅れた人にも、主は来てくださる。

みんなより一週間遅くてもいい。

主は、その人を置いて先に行ってしまうお方ではありません。

むしろ、その人のために、もう一度その部屋に立ってくださるのです。

主イエスは、前と同じように真ん中に立って言われます。

「あなたがたに平和があるように。」

これが復活の主の最初の言葉です。

責める前に平和。

叱る前に平和。

評価する前に平和。

主は、傷ついて閉じこもっている弟子たちのまんなかに立って、まず平和を宣言されるのです。

これは、罪も弱さもないから平和なのではありません。

むしろ、罪も弱さも、恐れも不信仰も全部ある、そのただ中に、十字架と復活の主が立ってくださるから平和なのです。

そして主は、トマスの言葉をちゃんと聞いておられました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

主はトマスをさらし者にはなさいません。

「お前、先週あんなこと言うてたな」とは言わない。

そうではなく、トマスが必要としていた場所まで、主のほうから降りてきてくださったのです。

ここが、ほんまに慰めです。

主は、私たちにもそうしてくださる。

人によって、つまずきは違います。

人によって、信じられない理由も違います。

ある人は知的に引っかかる。

ある人は感情的に引っかかる。

ある人は過去の傷が深すぎて、一歩が踏み出せない。

でも主は、その人の弱さをちゃんとご存じです。

そして、あなたに必要な仕方で近づいてくださるのです。

トマスはそのとき、

「わが主、わが神よ」

と告白しました。

これがヨハネ福音書のクライマックスの一つです。

一番遅れた弟子が、一番深い告白をしたのです。

一番疑っていた弟子が、一番まっすぐな信仰告白へ導かれたのです。

これは大事なことです。

遅れたからだめなのではありません。

回り道をしたから無意味なのでもありません。

むしろ、たくさん悩み、たくさんもがいた人が、最後には「わが主、わが神よ」と深く告白することがあるのです。

ですから、今日ここにおられる方の中で、「自分は信仰において遅れている」と感じておられる方があるなら、どうかあきらめないでください。

家族は信じている。周りの人は礼拝を喜んでいる。でも自分だけまだよく分からない。

そういう方があるかもしれません。

でも、トマスのためにもう一度来てくださった主は、あなたのためにも来てくださいます。

遅れてやってきたイースターでもかまいません。

本物の出会いが与えられるなら、それでいいのです。

3.なぜキリスト者は日曜日に礼拝するのか

そして、ここでさらに心に留めたいことがあります。

主イエスが復活されたのは、週の初めの日でした。

そしてその日の夕方、主は弟子たちのまんなかに立たれました。

さらに八日の後、つまり次の週の初めの日にも、トマスのいるところに主は立たれました。

ヨハネは、復活の主が二度までも日曜日に、ご自分の民の中に立たれたことを記しています。

ここから教会の歴史が始まっていきます。

新約聖書には、「今後は日曜日を守りなさい」という、十戒のような新しい命令が前面に置かれているわけではありません。

けれども、復活の主が週の初めの日にご自分を現された、その出来事があまりにも決定的だったのです。

だから教会は、その日を「主の日」として覚え、集まり、パンを裂き、献げものを備え、礼拝するようになっていきました。

使徒言行録20章7節は弟子たちが「週の初めの日」に集まってパンを裂いたことを語り、コリントの信徒への手紙一16章2節も「週の初めの日ごと」に備えることを語り、黙示録1章10節は「主の日」という呼び名を伝えています。

つまり、キリスト者が日曜日に礼拝するようになったのは、単なる慣習ではありません。

まして「日曜の朝に教会へ行くのが西洋の宗教っぽいから」でもありません。

そうではなく、復活の主が、その日に、ご自分の群れの真ん中に立ってくださったからです。

日曜日とは、ただ一週間の最後の休日ではないのです。

教会にとっては、死を打ち破った主が、もう一度私たちのまんなかに立ってくださる日なのです。

そして、その日曜日の礼拝は、やがて社会そのものの形まで変えていきました。

ローマ帝国の各地にクリスチャンが増え広がっていく中で、コンスタンティヌス帝は321年、日曜日を休業日とする最初の民事立法を出しました。

農業など必要な仕事を除いて、裁判所や町の仕事を休ませるという内容でした。

後の時代にはさらに日曜日の制限が広がっていきます。

もちろん、これは教会の歴史の中で無批判に美化できる話ばかりではありません。

しかし少なくとも言えるのは、復活の主を礼拝する日が、ついには帝国の時間のリズムそのものにまで影響を与えた、ということです。

さらにその長い歴史の流れの中で、ヨーロッパの太陽暦と週のリズムは近代日本にも入ってきました。

日本は1873年、明治6年からグレゴリオ暦を採用しました。そして明治9年には官公庁が日曜日を休日とするようになりました。

ですから、いま日本で、日曜日に学校が休みであったり、仕事が休みのところが多かったりする、その社会のリズムの奥をたどっていくと、そこには遠く、復活の主を礼拝してきたキリスト教の歴史が刻まれているのです。

考えてみれば、これはすごいことです。

二千年前、エルサレムの片隅の、鍵のかかった部屋の中に立たれた復活のキリストが、世界の時間を変えてしまわれたのです。

その影響が、ローマ帝国を越え、ヨーロッパを越え、巡り巡って明治の日本にまで届き、そして今日、私たちが「日曜日」と呼んでいるこの日の上にも及んでいる。

日曜日とは、ただの休日ではありません。

世界の歴史の中に、復活の主の足跡が刻み込まれている日なのです。

だからこそ、私たちは日曜日ごとに礼拝に集まります。

義務感だけではありません。

習慣だけでもありません。

復活の主が今も生きておられ、今もご自分の民の真ん中に立って、

「あなたがたに平和があるように」

と語ってくださるからです。

礼拝とは、ただ歌って話を聞いて帰る集まりではありません。

生けるキリストが、共にいる群れのただ中に来てくださる場なのです。

4.「共に」いる教会へ――遅れている人も招かれている

ここで、年間主題「共に」にもう一度帰りたいのです。

詩編133編は、

「兄弟が共に座っている」

ことの幸いを歌っています。

けれども、その「共に」は、きれいにそろった人たちの集まりではありません。

ヨハネ20章の部屋を見てください。

恐れている人たちです。

傷ついている人たちです。

失敗した人たちです。

疑っている人たちです。

意見の合わない人たちです。

それでも共にいる。

そこに主が来てくださる。

これが教会の祝福です。

ですから、この一年、私たちの教会が、強い人だけの教会ではなく、弱い人も共にいられる教会でありますように。

すぐ信じられる人だけの教会ではなく、トマスのように遅れている人も共にいられる教会でありますように。

元気な人だけの教会ではなく、疲れた人も、傷ついた人も、迷っている人も、共にいられる教会でありますように。

反目があっても、温度差があっても、それでもなお同じ部屋にいる。

そういう教会の真ん中に、復活の主は立ってくださるのです。

結び――あなたにも、イースターはやって来る

そして最後に、今日この礼拝の中に、まだキリストを信じておられない方があるなら、私はその方に申し上げたいのです。

あなたが今日ここにいるのは、偶然ではありません。

トマスに遅れてイースターがやって来たように、あなたにも今、復活の主が近づいておられるのです。

ほかの人より遅れていても大丈夫です。

まだ半信半疑でも大丈夫です。

全部分かっていなくても大丈夫です。

大事なのは、共にいることです。

礼拝の中に身を置くことです。

御言葉の前に座ることです。

その真ん中に、主が立ってくださるからです。

日曜日は、キリストが復活された日です。

日曜日は、トマスのところへ主が来てくださった日です。

日曜日は、教会が復活の主を礼拝するようになった日です。

そして今日の日曜日もまた、主があなたを招いておられる日です。

どうか、あなたもこの招きに応えてください。

復活のキリストは、昔の人のためだけに生きておられるのではありません。

今、あなたのために生きておられます。

そして、あなたにも語っておられます。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。

遅れてやってきたイースター。

でも、その遅れてきたイースターこそ、トマスにとっては、本物のイースターでした。

どうかあなたにも、その本物のイースターが来ますように。

そしてこの教会が、そのイースターを、みんなで共に迎える群れでありますように。

アーメン。

サムネイルはレンブラント作『トマスの不信』

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました