使徒 2章22~42節 十字架につけられた人が救い主?!
救い主が十字架につけられるという衝撃
皆さん、「救い主」と聞いて、どんな人を思い浮かべるでしょうか。
強い人。負けない人。悪を倒す人。最後には大逆転する人。映画でも漫画でも、ヒーローというのはだいたいそうです。倒れそうになっても、最後は立ち上がる。敵を打ち破る。拍手喝采を浴びる。
ところが、聖書が語る救い主はどうでしょうか。
十字架につけられた人です。
これは当時の人々にとって、信じがたいことでした。十字架刑は、ただ死ぬ刑罰ではありません。ローマ帝国が見せしめとして行う、最も恥ずべき処刑でした。「この者は負けた」「この者に従う者も同じ目に遭うぞ」と世にさらす刑罰です。
ですから、「十字架につけられた人が救い主です」と言うのは、普通に考えれば無茶な話です。今日の説教題の通りです。
「十字架につけられた人が救い主?!」
しかし、使徒言行録2章でペトロが語った福音は、まさにそれでした。
「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、メシアとなさった。」
ペンテコステの日、聖霊が降り、教会が誕生したその日に語られた説教の中心は、道徳講話ではありませんでした。人生をちょっと良くするコツでもありませんでした。
十字架につけられ、復活させられたイエスこそ主であり、救い主である。
ここから教会は始まったのです。
神が証しされたイエス
ペトロはまず、ナザレのイエスがどういう方であったかを語ります。
イエスは、神から遣わされた方でした。神は、力ある業、不思議な業、しるしによって、そのことを人々の間で証しされました。
病人は癒やされました。悪霊に苦しむ人は解放されました。罪人と呼ばれた人は神の食卓に招かれました。重荷を負う人に、「わたしのもとに来なさい」と声がかけられました。
イエス様は、ただの宗教的天才ではありません。自分で「私はすごい」と言い張った人でもありません。神ご自身が、その歩みを通して、この方こそ遣わされた救い主であると示されたのです。
ところが、人々はこのイエスを受け入れませんでした。
なぜでしょうか。
証拠が足りなかったからでしょうか。奇跡が少なかったからでしょうか。説明が不十分だったからでしょうか。
そうではありません。問題は、人間の心にありました。
私たちはしばしば、「神様が本当におられるなら、もっと分かりやすく示してくれたら信じる」と言います。しかし聖書を見ると、神が分かりやすく示されたとき、人間は必ずしも信じたわけではありません。
紅海が割れても、不平を言います。預言者が語っても、耳を閉ざします。イエス様がしるしを行っても、「この男をどうにかして殺そう」と考える人々がいました。
問題は情報不足ではありません。心の向きです。
神が近づいてくださっているのに、人間は神を退ける。神が語ってくださっているのに、自分の声を優先する。神が救いの道を差し出してくださっているのに、「自分のやり方でやります」と言ってしまう。
ペトロは、そこをぼかしません。
イエスは神から遣わされた方である。あなたがたもそれを知っている。にもかかわらず、あなたがたはこの方を十字架につけたのだ、と語るのです。
「あなたがたが十字架につけた」
これは鋭い言葉です。
ペトロは群衆に向かって、「あなたがたが十字架につけた」と言います。もちろん、実際に釘を打ったのはローマ兵です。裁判に関わったのは宗教指導者や政治権力者たちです。そこにいた全員が、直接イエス様を十字架につけたわけではありません。
それでもペトロは、「あなたがたが」と言います。
これは、特定の民族だけを責める言葉ではありません。キリスト教会はこの言葉を、反ユダヤ主義の道具にしてはなりません。十字架は「彼らの罪」だけを示すものではなく、「私たちの罪」を示すものだからです。
私たちもまた、神の御子を退ける者です。
自分の正しさにしがみつくとき。赦されるよりも、相手を裁くことに熱心になるとき。神の御心より、自分の都合を優先するとき。イエス様が「敵を愛しなさい」と言われても、「いや、あの人だけは無理です」と心の中で言うとき。イエス様が「わたしに従いなさい」と招いてくださっても、「そこまで人生を明け渡すのは困ります」と距離を置くとき。
私たちも、十字架の前に立たされます。
「あなたがたが十字架につけた。」
これは過去の群衆だけへの言葉ではありません。今日、私たちの胸にも刺さる言葉です。
しかし、ペトロは人々を絶望させるために語っているのではありません。罪を指摘するのは、救いへ招くためです。医者が病名を告げるのは、患者を辱めるためではありません。治療へ導くためです。
福音は、「あなたは何も悪くありません」と言って、ごまかすものではありません。
福音は、「あなたには罪があります。しかし、その罪を担う救い主がおられます」と告げるものです。
人間の罪より大きい神の計画
ペトロは、イエス様の十字架について、さらに深いことを語ります。
イエスは、神の定められた計画と予知によって引き渡された。そして同時に、人々は不法な者たちの手を借りて、イエスを十字架につけて殺した。
ここには二つのことが同時に語られています。
一つは、十字架は偶然の悲劇ではなかった、ということです。イエス様は失敗して十字架にかかったのではありません。神の計画の中で、救いのために十字架へ向かわれたのです。
もう一つは、それでも人間の罪の責任は消えない、ということです。神の計画だったから、人間には責任がない、とはなりません。人々は確かに、神の御子を退けました。正しい方を罪人として扱いました。命の主を殺したのです。
ここに十字架の不思議があります。
人間が最悪のことをした場所で、神は最高の救いを成し遂げられました。人間が神の御子を殺した十字架で、神は罪人を救う道を開かれました。
十字架は、人間の罪の頂点です。しかし同時に、神の愛の頂点です。
人間の側から見れば、「神の御子を退けた場所」です。神の側から見れば、「罪人を赦すために御子を与えた場所」です。
ですから十字架は、ただの悲劇ではありません。ただの殉教でもありません。ただの感動物語でもありません。
十字架は、神の裁きと神の恵みが出会う場所です。罪が罪として明らかにされ、同時に、その罪の赦しが与えられる場所です。
死が支配できなかった救い主
しかし、ペトロの説教は十字架で終わりません。
神はイエスを死の苦しみから解放し、復活させられました。死がイエスを支配し続けることはできなかった、というのです。
ここがキリスト教信仰の中心です。
もしイエス様が十字架で死んで、そのまま墓の中におられるなら、私たちは「イエス様は立派な人でした」と言うことはできるかもしれません。「愛の人でした」「弱い者の味方でした」「歴史に残る宗教家でした」と評価することはできるかもしれません。
しかし、「救い主です」とは言えません。
死に敗れた救い主は、私たちを死から救うことができないからです。
けれども、神はイエス様を復活させられました。人間が「この人は終わった」と判決を下した方に、神が「この方こそ主である」と宣言されたのです。
ここに、神の大逆転があります。
人間の法廷では有罪。神の御前では義なる方。人間の目には敗北者。神の御前では勝利者。人間は十字架で終わらせたつもりでした。しかし神は、そこから新しい命を始められました。
私たちは、十字架を見るとき、人間の罪を見ます。しかし復活を見るとき、神の勝利を見ます。
死は最後の言葉を持ちません。墓は最終地点ではありません。罪も、絶望も、最後の支配者ではありません。
最後の言葉を持つのは、復活の主イエス・キリストです。
この方こそ主であり、メシアである
ペトロは説教の結論として、こう宣言します。
「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、メシアとなさった。」
ここが今日の説教題そのものです。
十字架につけられた人が救い主?!
はい。まさにその方が救い主です。
なぜなら、神がその方を復活させ、主とし、メシアとなさったからです。
「主」とは、ただの先生、尊敬できる人物、人生のアドバイザーという意味ではありません。私の人生の所有者、支配者、礼拝されるべき方です。
「メシア」とは、神が約束された救い主、油注がれた王です。
イエス様は、困ったときだけ呼び出す便利な神様ではありません。日曜日の午前中だけ関係する宗教的存在でもありません。私の時間にも、財布にも、人間関係にも、怒りにも、欲望にも、将来にも、死にも、主であられる方です。
ここで私たちは問われます。
私はイエス様を「役に立つ方」として見ているだけではないでしょうか。慰めは欲しいけれど、従うことは避けていないでしょうか。十字架の赦しは欲しいけれど、復活の主に人生を明け渡すことはためらっていないでしょうか。
福音は、「イエス様を人生のオプションに加えましょう」という招きではありません。
「十字架につけられ、復活されたこの方こそ主です。この方によって赦され、この方に従って生きなさい」という招きです。
「わたしたちはどうしたらよいのですか」
ペトロの説教を聞いた人々は、胸を打たれました。
これは、ただ感動したということではありません。心を刺し貫かれたのです。自分たちが何をしてしまったのかが分かったのです。神から遣わされた救い主を、自分たちは退けてしまった。その事実の前に立たされたのです。
そして彼らは尋ねます。
「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」
これは、福音を聞いた人の最も大切な問いです。
説教を聞いて、「なかなか良い話でした」で終わることがあります。聖書を読んで、「深いですね」で終わることがあります。礼拝に出て、「今日の賛美はよかった」「あの例話は面白かった」で終わることもあります。
しかし福音が本当に心に届くとき、私たちはただの鑑賞者ではいられません。
「では、私はどうしたらよいのか。」
この問いへ導かれます。
ペトロの答えは明確です。
悔い改めなさい。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい。罪の赦しを受けなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受ける。
悔い改めとは、ただ反省することではありません。「悪かったなあ」と落ち込むだけでもありません。方向転換です。神に背を向けて歩いていた者が、神の方へ向き直ることです。自分を主として生きていた者が、イエス様を主として受け入れることです。
洗礼とは、その信仰を公に表すしるしです。イエス様に結ばれ、罪赦され、新しい命に生きる者とされたことを、教会の交わりの中で告白することです。
福音は、心の中だけのぼんやりした慰めではありません。人生の方向を変え、主に従って生きる道へと私たちを招くのです。
約束は、遠くにいる人にも
ペトロは言います。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも与えられている。
ここに福音の広がりがあります。
神の約束は、立派な人だけのものではありません。聖書をよく知っている人だけのものでもありません。失敗の少ない人だけのものでもありません。
神から遠いと思っている人。教会から遠ざかっている人。自分はふさわしくないと思っている人。過去の罪に縛られている人。家族の中で信仰を受け継げるのか不安を抱いている人。
そのような人々にも、福音の約束は差し出されています。
もちろん、これは自動的に誰でも救われるという意味ではありません。ペトロは悔い改めを呼びかけています。しかし同時に、神の招きは狭く閉じられていません。
「私のような者は無理です。」
「今さら変われません。」
「もう少しちゃんとしてから教会に行きます。」
そう言いたくなる私たちに、福音は告げます。
ちゃんとしていない私たちのために、キリストは十字架にかかられました。罪人である私たちを招くために、主は復活されました。
救われた者は、教会に加えられる
この日、ペトロの言葉を受け入れた人々が洗礼を受け、およそ3000人が仲間に加わりました。
救われた人々は、ただ個人的に「よかったですね」で終わったのではありません。教会に加えられました。そして彼らは、使徒の教え、交わり、パンを裂くこと、祈りに熱心であったと記されています。
福音は、個人を救います。しかし、個人主義に閉じ込めません。
イエス様を信じるとは、「私と神様だけの関係があればいい」ということではありません。救われた者は、神の民に加えられます。兄弟姉妹と共に御言葉を聞き、共に祈り、共に主の食卓にあずかり、共に礼拝する者とされます。
教会は、完璧な人の集まりではありません。十字架がなければ立てない人々の集まりです。復活の主に生かされなければ、すぐに曲がってしまう人々の集まりです。
だからこそ、教会は希望なのです。
この曲がった時代の中で、十字架と復活の主を中心にして生きる民。赦された者として、互いに赦し合う民。神の言葉に立ち、祈りながら歩む民。
それが教会です。
今日、私たちはどう応えるのか
今日の御言葉は、私たちに問いかけます。
十字架につけられた人が救い主?!
そうです。
十字架につけられたこのイエスこそ、救い主です。
十字架で死なれたこの方こそ、罪を赦す方です。
復活されたこの方こそ、死を打ち破る主です。
神が主とし、メシアとなさったこの方こそ、私たちが信じ、従うべき方です。
私たちは、この方の前にどう立つでしょうか。
ただ知識として知るだけでしょうか。
「よい教えですね」と距離を置いたままでいるでしょうか。
それとも、胸を打たれて言うでしょうか。
「わたしたちはどうしたらよいのですか。」
その問いに、聖書は今も答えます。
悔い改めなさい。
イエス・キリストの名によって罪の赦しを受けなさい。
聖霊を受け、新しい命に生きなさい。
神の民に加えられ、御言葉と交わりと祈りの中で歩みなさい。
十字架は、私たちの罪がどれほど深いかを示します。
復活は、神の恵みがそれよりも深いことを示します。
私たちが神を退けた場所で、神は私たちを捨てられませんでした。
私たちが御子を十字架につけた場所で、神は私たちの救いを成し遂げてくださいました。
私たちが死で終わると思っていた場所で、神は復活の命を始めてくださいました。
だから、恐れずに主のもとへ行きましょう。
「私など」と言う必要はありません。
「今さら」と言う必要もありません。
「もう少し整ってから」と先延ばしにする必要もありません。
十字架につけられた救い主は、罪人を招いておられます。
復活された主は、今も生きておられます。
聖霊は、今日も私たちを悔い改めと信仰へ導いてくださいます。
この方こそ、私たちの主。
この方こそ、私たちの救い主。
この方こそ、十字架につけられ、復活されたイエス・キリストです。
私たちも、この主に向かって、心から応えましょう。
「主よ、あなたこそ救い主です。
私の罪を赦してください。
私の人生の主となってください。
私を、あなたの教会に生きる者としてください。」
この祈りをもって、十字架と復活の主に従う歩みを、今日ここから始めさせていただきましょう。
サムネイルはマソリーノ・ダ・パニカーレ作「聖ペテロの説教」


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