ルカ16章11~32節 父の家に入らない兄息子

説教

ルカ15章11~32節 父の家に入らない兄息子

放蕩息子のたとえの真の意味

今日、私たちに与えられている御言葉は、いわゆる「放蕩息子のたとえ」です。

教会に長く通っている方なら、何度も聞いたことがあるかもしれません。教会学校でもよく語られる箇所です。ある人は、この物語を「聖書の中の真珠」と呼びました。それほど美しく、それほど深く、それほど福音そのものを語っている箇所です。

しかし、このたとえを何度も聞いていると、私たちはつい思ってしまいます。「ああ、あの話ね。財産をもらって家を出た息子が、失敗して帰ってくる話でしょう。そして父が赦してくれる話でしょう」と。

もちろん、その通りです。けれども、この話はそれだけではありません。実は、この物語の最後で、家の外にいるのは、放蕩した弟ではありません。家の外に立っているのは、まじめで、正しくて、ずっと父の家にいたはずの兄なのです。

今日は、この有名な「放蕩息子」のたとえを、特に「兄息子」にも目を向けながら聞いていきたいと思います。

1 父の家を出て行く弟

ある人に二人の息子がいました。弟が父に言います。

「お父さん、私がいただくことになっている財産の分け前をください。」

これは、現代の私たちが聞いても少し失礼な言葉です。しかし、当時のユダヤ社会で聞けば、もっと強烈です。父親がまだ生きているのに、相続財産をくれと言う。つまり、言葉は悪いですが、「お父さん、あなたが死ぬまで待てません。あなた自身よりも、あなたの財産が欲しいのです」と言っているようなものです。

弟は父の家が嫌だったのでしょう。父のもとで生きることが窮屈だったのでしょう。自分の人生は自分のものだ。自分の好きなように生きたい。誰にも口出しされたくない。そう思ったのかもしれません。

この弟は、決して立派な人ではありません。聖書はそのことを曖昧にしません。彼は父の愛を踏みにじり、家族の関係を壊し、与えられたものを浪費していきます。遠い国へ行き、そこで放蕩の限りを尽くし、財産を使い果たしました。

そして、飢饉が起こります。彼は困り果て、豚の世話をすることになります。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物です。その豚の餌で腹を満たしたいと思うほど、彼は落ちぶれていきました。

ここで大事なことがあります。

イエス様は、弟の罪を軽く描いておられるのではありません。
「若い時はいろいろあるよね」
「失敗も人生経験だよね」
そういう話ではありません。

弟は本当に罪を犯しました。父を傷つけ、家を捨て、自分自身も壊していきました。罪は人を自由にするように見えて、最後には人を飢えさせます。神なしの自由は、最初は広い道のように見えるかもしれません。しかし、その先で人は、自分がどこにも帰れなくなっていることに気づくのです。

けれども、そこで彼は我に返ります。

「父のところには、パンの有り余っている雇い人が大勢いるのに、私はここで飢え死にしそうだ。」

弟は、父の家を思い出しました。自分が失ったものを思い出しました。そして言います。

「ここをたち、父のところに行こう。」

ただし、彼はもう息子として帰る資格はないと思っています。だから、「息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言おうとします。

ここに、罪人の姿があります。

人は罪の中で傷つきます。そして、本当に神のもとに帰ろうとする時、自分には資格がないことを知ります。「私は神の子です」などと胸を張って帰れる人はいません。「私は立派にやってきました。ですから迎えてください」とは言えません。せいぜい言えるのは、「もう息子と呼ばれる資格はありません」ということだけです。

けれども、福音はここから始まります。

2 父は走り寄る

弟がまだ遠く離れていた時、父は息子を見つけました。

ここがこの物語の中心です。

父は、たまたま見つけたのではないでしょう。おそらく、父は待っていたのです。毎日、道の向こうを見ていたのです。今日こそ帰ってこないか。あの子はどこにいるのか。生きているのか。飢えていないか。傷ついていないか。

そして、まだ遠く離れている息子を見つけると、父は憐れに思い、走り寄り、首を抱き、接吻しました。

当時の年長の男性が走るというのは、決して格好のよいことではありません。裾をからげて走らなければならない。威厳が崩れる。周りから見れば、みっともない姿です。

しかし、父は走りました。

なぜでしょうか。

息子を責めるためではありません。
息子を問い詰めるためではありません。
息子に「まず反省文を書け」と言うためでもありません。

父は、息子を抱きしめるために走ったのです。

弟は、用意していた言葉を言います。

「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」

しかし、父はその先を言わせません。「雇い人の一人にしてください」と言い切る前に、父は僕たちに命じます。

一番良い服を持ってきなさい。
指輪をはめなさい。
履物を履かせなさい。
肥えた子牛を屠って、祝宴を始めよう。

服は、息子としての回復を表します。
指輪は、家族としての権威を表します。
履物は、奴隷ではなく自由な者であることを表します。

父は、彼を雇い人としてではなく、息子として迎えました。

ここに福音の順序があります。

整ったから迎えられるのではありません。
迎えられたから、回復が始まるのです。

生活を全部きれいにして、人格を磨いて、失敗を全部帳消しにして、もう二度と間違えない自信を持ってから、父の家に入れてもらうのではありません。

そうではなく、ぼろぼろのまま、飢えたまま、恥を抱えたまま、「私はもう息子と呼ばれる資格がありません」と言う者を、父が走り寄って抱きしめてくださる。そこから回復が始まるのです。

これは、罪を軽くする話ではありません。むしろ逆です。罪は深刻です。だからこそ、父の憐れみが必要なのです。罪は人を壊します。だからこそ、父の家に帰らなければならないのです。

病気が深刻だから病院に行くのです。傷が深いから医者のもとへ行くのです。罪があるからキリストのもとへ行くのです。

教会は、すでに完全に健康な人だけが集まる場所ではありません。教会は、キリストというまことの医者のもとに、傷ついた者、罪ある者、迷った者が集められ、癒やされ、造り変えられていく場所です。

私たちは、きれいになったから神に愛されるのではありません。
神に愛されるから、少しずつきよめられていくのです。

ここを逆にしてしまうと、福音は福音でなくなります。

「ちゃんとしたら来なさい」
「整ったら受け入れます」
「ふさわしくなったら神の家族と認めます」

そう言いたくなる私たちがいます。しかし、父はそうされませんでした。父は、まだ遠く離れている息子を見つけて、走り寄られたのです。

3 家の外にいた兄

さて、普通ならここで話は終わってもよさそうです。

めでたし、めでたし。弟は帰ってきた。父は赦した。宴会が始まった。失われた者が見つかった。これで終わり。

しかし、イエス様はここで終わらせません。

畑にいた兄が帰ってきます。音楽や踊りの音が聞こえます。何事かと僕に尋ねると、弟が帰ってきたので、父が肥えた子牛を屠ったというのです。

すると兄は怒りました。そして、家に入ろうとしませんでした。

ここが、このたとえのもう一つの山場です。

弟は家に入りました。
兄は家の外にいます。

弟は父に抱きしめられました。
兄は父の喜びを拒んでいます。

父は、兄のところにも出て来ます。そしてなだめます。弟の時も、父は走り寄りました。兄の時も、父は外に出て来ます。父は、弟だけを愛しているのではありません。兄も愛しているのです。

しかし、兄は言います。

「この通り、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私には友達と楽しむための子山羊一匹もくれなかった。」

兄はまじめです。
兄は働き者です。
兄は父の家にずっといました。
兄は父の言いつけを守ってきました。

けれども、その言葉の中には、悲しい響きがあります。

「私は何年もお父さんに仕えています。」

彼は、自分を息子ではなく、雇い人のように見ていたのかもしれません。父の家にいながら、父の愛の中に生きていなかった。父と共にいる喜びではなく、「これだけやったのに報われない」という計算の中にいたのです。

さらに兄は、弟のことを「あなたのあの息子」と呼びます。
「私の弟」とは言いません。

父の家にいながら、兄は弟を兄弟として見ることができませんでした。父が喜んでいるのに、その喜びに入れませんでした。

ここで私たちは、自分自身に問われます。

私たちは弟でしょうか。兄でしょうか。

もちろん、私たちの中には弟の姿があります。神から離れ、自分の思い通りに生き、与えられたものを浪費し、傷つき、飢え、ようやく神のもとに帰る。そういう弟の姿が私たちの中にあります。

しかし同時に、私たちの中には兄の姿もあるのではないでしょうか。

まじめに礼拝を守ってきた。
奉仕もしてきた。
献金もしてきた。
教会のために我慢もしてきた。
神様の言いつけに背かないように努力してきた。

それ自体は尊いことです。まじめに信仰生活を送ることは悪いことではありません。奉仕することも、祈ることも、礼拝を守ることも、決して悪いことではありません。

けれども、それがいつの間にか、「だから私はあの人より上だ」「だから私は受け入れられる資格がある」「だからあの人はまだふさわしくない」という思いに変わるなら、私たちは父の家の中にいながら、父の心から遠く離れてしまうのです。

弟は、遠い国で迷子になりました。
兄は、父の家の中で迷子になりました。

弟は、罪の中で父を見失いました。
兄は、自分の正しさの中で父を見失いました。

これは、とても恐ろしいことです。

なぜなら、弟の迷子は分かりやすいからです。生活が乱れ、失敗し、落ちぶれれば、自分でも「私は迷っている」と気づくかもしれません。

けれども、兄の迷子は分かりにくい。礼拝に出ている。奉仕している。正しいことを言っている。周りから見れば立派です。しかし、心の中で父の恵みを喜べなくなっている。失われた者が帰ってくることを喜べなくなっている。自分の正しさで人を測り、人を家の外に置こうとしている。

その時、家の外にいるのは誰でしょうか。

実は、兄なのです。

4 父の言葉

父は兄に言います。

「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。」

これは深い言葉です。

父は兄を責め立てません。
「お前は冷たい兄だ」
「お前は律法主義者だ」
「お前こそ悔い改めなさい」
そう言って突き放すこともできたでしょう。

しかし父は、「子よ」と呼びかけます。

父は兄にも、息子として語りかけます。

「お前はいつも私と一緒にいる。」

兄が見失っていたのは、ここでした。父と共にいること自体が恵みだったのです。父の家にいること、父のものが自分のものとされていること、それはすでに大きな恵みでした。

兄は報酬を求めていました。
しかし、父は関係を与えていました。

兄は「子山羊一匹もくれなかった」と不満を言います。
しかし父は、「私のものは全部お前のものだ」と言います。

信仰生活とは、神から何かを勝ち取るための労働ではありません。神の子とされた者が、父と共に生きる恵みです。奉仕も、礼拝も、祈りも、神に認めてもらうための点数稼ぎではありません。すでに愛され、受け入れられた者が、その愛に応えて生きる喜びです。

そして父は続けます。

「あの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか。」

父は、兄に喜びへ招いています。

「お前も一緒に喜んでほしい。」
「私の喜びを、あなたの喜びにしてほしい。」
「この子が帰ってきたことを、あなたも兄として喜んでほしい。」

ここに、教会の姿があります。

教会とは、父の喜びを共に喜ぶ家です。

誰かが帰ってきた時、
誰かがキリストのもとに来た時、
誰かがぼろぼろの姿で「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言いながら父のもとに戻ってきた時、
その人を見て、「まだ早い」「まだ整っていない」「まだ信用できない」と腕を組んで立つのではなく、父と共に喜ぶ。

もちろん、回復には時間がかかります。罪の問題があるなら、丁寧に向き合う必要があります。生活の乱れがあるなら、教会はそれを見て見ぬふりにしてよいわけではありません。赦しとは、罪を罪でないことにすることではありません。恵みとは、何をしてもかまわないという放任ではありません。

けれども、順序を間違えてはならないのです。

父の家に迎えられ、父の愛の中で、少しずつ造り変えられていくのです。

キリストは、私たちが完全になってから十字架にかかられたのではありません。私たちがまだ罪人であった時、キリストは私たちのために死んでくださいました。これが福音です。

だから教会も、キリストに倣います。

教会は、「ちゃんとした人の会員制クラブ」ではありません。
教会は、ちゃんとしていない私たちが、ちゃんとしておられるキリストに抱きしめられ、少しずつ造り変えられていく、恵みの共同体です。

5 この物語の結末

不思議なことに、このたとえは、兄が家に入ったかどうかを書かずに終わります。

兄は父の招きに応えたのでしょうか。
それとも、最後まで家の外に立ち続けたのでしょうか。

イエス様は、結末を書かれません。

なぜでしょうか。

それは、この物語を聞いている私たち自身が、兄だからです。

ルカ15章の初めを見ると、徴税人や罪人たちが皆、イエス様の話を聞こうとして近寄ってきました。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いました。

その人々に向かって、イエス様はこのたとえを語られたのです。

つまり、この物語は、弟だけに語られた話ではありません。
兄たちに語られた話です。

「あなたは父の喜びに入るのか。」
「あなたは失われた者が見つかったことを喜ぶのか。」
「あなたは、父が走り寄って抱きしめるその人を、兄弟姉妹として迎えるのか。」

イエス様は、私たちに問いかけておられます。

私たちはどこに立っているでしょうか。

父の家の中で、宴会の喜びに加わっているでしょうか。
それとも、家の外で腕を組み、「あの人が入るなら私は入らない」と立っているでしょうか。

私たちは、弟のように帰る必要があります。
そして、兄のように父の喜びに入る必要があります。

福音は、弟だけを救うのではありません。兄も救います。
生活の乱れた弟も、正しさで固まった兄も、どちらも父の憐れみを必要としています。

キリストの十字架は、遠い国で身を持ち崩した者のためにもあります。
そして、父の家にいながら父の心を見失った者のためにもあります。

私たちは皆、父に抱きしめられなければ生きられない者です。
私たちは皆、キリストの恵みによってでなければ、神の家に入ることのできない者です。

だからこそ、教会は恵みを喜びます。
自分が赦されたことを喜びます。
隣の人が赦されることを喜びます。
あの人が帰ってきたことを喜びます。
父が喜んでおられることを、私たちも喜びます。

結び

今日、父は私たちを招いておられます。

遠い国にいる弟には、こう語られます。

「帰ってきなさい。あなたはもう終わりではない。あなたは私の子だ。」

父の家の外に立つ兄には、こう語られます。

「子よ、あなたも私と一緒に喜んでほしい。私の家に入りなさい。」

この二つの招きは、どちらも福音です。

私たちの父なる神は、罪に傷ついた者を遠くから見つけ、走り寄り、抱きしめてくださるお方です。そして同時に、正しさの中で心が冷たくなった者のところにも出て来て、「子よ」と呼びかけてくださるお方です。

なんという恵みでしょうか。

この父の家に、私たちは招かれています。
この父の喜びに、教会は招かれています。

どうか私たちの教会が、父の家でありますように。
失われた者が帰って来られる家でありますように。
罪を曖昧にするのではなく、罪人をキリストのもとへ迎える家でありますように。
正しさで人を締め出すのではなく、父の喜びを共に喜ぶ家でありますように。

そして、私たち自身が、弟として父に抱かれ、兄として父の喜びに入り、共に食卓を囲む者とされますように。

「あの子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった。」

この父の喜びが、私たちの喜びとなりますように。
父の家の扉は、今日も開かれています。
父は、今日も待っておられます。
そして、帰ってくる者を見つけると、走り寄って抱きしめてくださるのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました