マルコ5章1~20節 墓場から家へ――社会を変える福音
1.墓場に追いやられた一人の人
今朝、私たちに与えられている御言葉は、少し不思議で、少し怖くて、しかし最後には深い慰めに満ちた物語です。ゲラサ人の地方で、悪霊に取りつかれていた一人の人が、主イエスによって救われる物語です。
この人は、墓場に住んでいました。家ではありません。町でもありません。人の生活の場ではなく、死者のいる場所です。しかも、彼は鎖でつながれていました。足枷もはめられていました。しかし、彼はその鎖を引きちぎり、足枷を砕いてしまう。人々は彼を恐れました。家族も、近所の人も、村の人も、どうしてよいか分からない。どうにもできない。だから、彼を墓場に追いやったのです。
これは、ただ「昔は精神病の理解がなかった」という話だけではありません。もちろん、現代の私たちは、病を悪霊と短絡的に結びつけてはいけません。心の病、発達の課題、依存症、孤独、トラウマ、そういうものに苦しむ人を、「信仰が足りないからだ」「悪霊のせいだ」と決めつけることは、福音ではなく暴力です。
しかし同時に、聖書はここで、単なる心理学や社会学では説明しきれない、霊的な現実を語っています。この人の内側には、人間を壊し、孤立させ、神のかたちをゆがめる力が働いていました。彼は自分で自分を支配できない。人との関係も壊れている。社会からも排除されている。神の前に造られた一人の人間が、もう人間として扱われていない。
2.主イエスは墓場へ来られる
そこに、主イエスが来られるのです。
ここが大事です。イエス様は、この人のいる場所へ来られました。安全な場所から、「あの人は大変やなあ」と眺めておられたのではありません。向こう岸へ渡り、異邦人の地へ行き、墓場に住む男の前に立たれました。
私たちは、できれば避けたいのです。ややこしい問題には関わりたくない。叫んでいる人、壊れている人、怒っている人、社会からはみ出している人、教会の秩序を乱しそうな人には、なるべく近づきたくない。正直に言えば、牧師でもそうです。「主よ、そこはちょっと私の担当外です」と言いたくなる。
けれども、主イエスは違います。主は、墓場へ行かれる。人が見捨てた場所へ行かれる。人が「もう無理です」と言ったところへ行かれる。
3.レギオン――絡み合った闇の名
そして悪霊は叫びます。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。」悪霊は、イエス様が誰であるかを知っています。町の人々より早く知っています。弟子たちよりも、ある意味では正確に知っています。「いと高き神の子」。しかし、知っていることと信じることは違います。正しい知識を持っていても、イエス様に従わないなら、それは救いではありません。
イエス様は尋ねられます。「名は何というのか。」すると答えます。「名はレギオン。大勢だからです。」レギオンとはローマ軍の軍団を思わせる言葉です。数の多さ、力の大きさ、圧倒的な支配を表す言葉です。
この人は、一つの問題だけで苦しんでいたのではありません。孤独もある。恐れもある。暴力もある。自傷もある。地域からの排除もある。霊的な支配もある。いろいろなものが絡み合って、「レギオン」のようになっている。
私たちの社会にも、そういう問題があります。貧困、孤独、差別、依存、家庭崩壊、いじめ、引きこもり、虐待、戦争、憎しみ。どれか一つだけを取れば説明できる、というものではありません。個人の罪だけでも説明できない。社会構造だけでも説明できない。霊的な闇を社会問題に還元してしまってもいけないし、社会の痛みを「個人の心の問題」に押し込めてしまってもいけない。
聖書は、人間をもっと深く見ています。人間は神のかたちに造られた尊い存在です。しかし、罪によって神との関係が壊れ、人との関係が壊れ、自分自身との関係も壊れ、社会の中でも壊れたものが積み重なっていく。だから、福音は魂だけを救う小さな知らせではありません。しかし、社会改革だけで終わる薄い知らせでもありません。
福音は、神のひとり子イエス・キリストが来られ、罪と死と悪の力を打ち破り、人間を神のもとへ取り戻す知らせです。そして、その救いは、結果として生活を変え、家族を変え、町を揺り動かすことさえあるのです。
4.一人の救いが、町の価値観を問う
悪霊たちは豚の中に入ることを願います。そして豚の群れは湖になだれ込み、おぼれ死にました。ここで、多くの人が引っかかります。「豚がかわいそうやないか」「経済的損失はどうなるのか」と思います。たしかに、二千匹の豚です。大損害です。業者からすれば、たまったものではありません。
けれども、聖書が私たちに問いかけているのは、まさにそこです。
一人の人が救われることと、二千匹の豚の損失と、私たちはどちらを重く見るのか。
もちろん、経済は大切です。生活も大切です。仕事も大切です。教会だって、会計がなければ成り立ちません。「信仰があればお金はいらない」などというのは、だいたいお金の管理をしたことがない人の言うことです。現実には、米も買わなければいけないし、電気代も払わなければいけない。
しかし、もし人間の回復よりも、経済の安定の方が絶対に大事だとなってしまうなら、それはもう福音とは違う世界です。
5.人が回復されることを恐れる町
町の人々は、悪霊につかれていた人が「服を着、正気になって座っている」のを見ました。これは驚くべき恵みです。人間が人間に戻ったのです。墓場の人が、生活の場に戻る準備をしているのです。
ところが人々は喜びませんでした。恐ろしくなったのです。そして、イエス様に「この地方から出て行ってほしい」と願いました。
ここに、私たちの社会の姿があります。いや、教会の姿さえあるかもしれません。人が本当に救われると、時々、私たちの秩序が揺さぶられます。都合のよい距離に置いていた人が、隣人として戻ってくる。見ないことにしていた痛みが、目の前に出てくる。人間の回復は、美しいだけではありません。時に、周囲の人々に「これからどう関わればよいのか」という問いを突きつけます。
福音は、人を慰めます。しかし同時に、私たちの都合を揺さぶります。福音は、心を平安にします。しかし同時に、社会の冷たさを暴きます。福音は、個人を救います。しかし、その個人が本当に回復されると、家族も地域も、その人をどう迎えるのか問われます。
6.救われた人は、家へ遣わされる
ここで、この男はイエス様に願います。「お供をさせてください。」当然です。この人にとって、イエス様こそ命の恩人です。墓場から救い出してくださった方です。もうこの町にはいたくないかもしれません。自分を鎖につないだ人たち、自分を恐れた人たち、自分を墓場に追いやった人たちのところに帰るのはつらい。できればイエス様について行きたい。
しかしイエス様は、それを許されませんでした。そして言われました。「自分の家に帰りなさい。そして、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
これは厳しい言葉でもあります。救われた人は、すぐに安全な宗教空間へ逃げ込むのではない。まず家へ帰る。生活の場へ帰る。自分を知っている人たちのところへ帰る。そして、立派な神学論文を語るのではなく、「主が私にしてくださったこと」を語る。
この人は、デカポリス地方で言い広めました。異邦人の町々で、最初の証し人のように用いられました。かつては叫び声によって人々を恐れさせていた人が、今度は福音を告げる声になったのです。かつては石で自分を傷つけていた人が、今度はキリストの憐れみを語る人になったのです。かつては町の厄介者だった人が、神の恵みの証人になったのです。
7.福音は魂を救い、生活を変える
ここに、福音の力があります。
福音は、ただ「死んだら天国へ行けます」というだけの知らせではありません。もちろん、永遠の命の希望は福音の中心です。十字架と復活によって罪が赦され、神との和解が与えられる。これは絶対に薄めてはいけません。福音派であろうと社会派であろうと、教会が教会であるなら、ここを失ってはいけません。
しかし同時に、福音は、今ここで人間を回復する力を持っています。壊れた尊厳を回復する。孤独な人を家へ返す。恐れられていた人を証し人に変える。墓場にいた人を、生活の場へ戻す。福音は個人の魂を救うだけでなく、その人を通して、周囲の関係を変え、町の価値観を揺さぶり、社会を変革する力さえ持っているのです。
ただし、その社会変革は、まず政治スローガンから始まるのではありません。まず、主イエスが一人の人に出会われるところから始まります。主イエスが、誰も近づけなかった人に近づき、誰も縛れなかった力を打ち破り、誰も戻せなかった人を家へ返す。そこから始まります。
8.教会は「この一人」を大切にする群れ
教会も同じです。教会が社会を変えるとは、何か大きなことを叫ぶことだけではありません。もちろん、正義を語ることも必要です。弱い人の側に立つことも必要です。不正に対して声を上げることも、時には必要です。しかし、その前に、教会は「この一人」を大切にする群れでありたいのです。
墓場にいる一人。
家に帰れなくなっている一人。
自分で自分を傷つけている一人。
周りから恐れられ、避けられている一人。
そして、もしかすると、その一人とは、私たち自身かもしれません。
9.私たちの墓場にも主は来られる
私たちも、表向きはちゃんとしているかもしれません。礼拝に来て、讃美歌を歌い、聖書を開いている。でも心のどこかに墓場がある。誰にも見せられない痛みがある。怒りがある。孤独がある。壊れた関係がある。「レギオン」とまでは言わなくても、自分でも整理できないものに縛られている。
けれども、主イエスはそこに来てくださいます。きれいな場所だけに来られるのではありません。礼拝堂だけに来られるのでもありません。墓場にまで来てくださる。私たちが「ここだけは見ないでください」と言いたくなる場所にまで、主は来てくださる。
そして主は、私たちを責めるためではなく、取り戻すために来られます。主イエスは、この後、十字架へ向かわれます。悪霊を追い出すだけでなく、罪と死の力そのものを背負い、十字架で打ち破ってくださいます。そして復活によって、新しい命を開いてくださいます。
だから、私たちは希望を持つことができます。どれほど壊れていても、主イエスには回復できない人はいません。どれほど遠くにいても、主イエスには届かない場所はありません。どれほど社会から排除されていても、主イエスはその人を神の恵みの証人に変えることができます。
10.墓場から家へ、叫びから証しへ
最後に、主は言われます。「自分の家に帰りなさい。」
救われた者は、生活の場へ遣わされます。家庭へ、職場へ、地域へ、学校へ、そして教会へ。そこで、「主が私を憐れみ、私にしてくださったこと」を語るのです。難しい言葉でなくてよいのです。完全な人間になってからでなくてよいのです。ただ、主がしてくださったことを語る。
墓場から家へ。
叫びから証しへ。
孤立から交わりへ。
恐れられる人から、福音を伝える人へ。
これが、主イエスの福音です。
福音は、個人の魂を救います。だからこそ、生活を変えます。生活を変えるからこそ、家族を変えます。家族を変えるからこそ、地域を揺り動かします。福音は、社会変革を目的にした思想ではありません。しかし、主イエスによって一人の人が本当に取り戻されるとき、その福音は社会をも変える力を持つのです。
私たちも、この主に出会いましょう。そして、この主に遣わされましょう。
主が私たちを憐れみ、私たちにしてくださったことを、私たちの家で、私たちの町で、語る者とさせていただきたいのです。
アーメン。
サムネイルはパウルブリル作「ゲラサ人の悪霊憑きの癒し」


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