神様を「推しの顔」に加工していませんか?―金の子牛が教える偶像礼拝の正体 出エジプト記32章全節
1待てなくなると、人は神を造り始める
今朝、私たちに与えられている御言葉は、有名な「金の子牛」の物語です。
モーセはシナイ山に登り、神様から十戒を受けていました。ところが、なかなか帰ってきません。人々は不安になり、アロンのところへ押しかけて言いました。
「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上ったモーセという者が、どうなってしまったのか分からないからです。」
まだ四十日です。四十年ではありません。けれども、不安の中で待つ四十日は長い。「神様を信じて待ちなさい」と言われても、いや、それができたら苦労せえへんねん、というのが私たちです。
山の上では、神様が「像を造って拝んではならない」と石の板に刻んでおられる。その同じ時、山の下では、人々が金の子牛を造っている。十戒を受け取る前から十戒を破っているのです。人間とは、まことに筋金入りの罪人です。
見えない神様より、目に見えるものが欲しい。手で触れられるものが欲しい。これさえあれば大丈夫だと思えるものが欲しい。それで、人々は耳につけていた金の輪を差し出し、アロンは金の子牛を造りました。
これは、昔の野蛮な人だけの話ではありません。銀行の残高、肩書、教会員数、有名な牧師。目に見えるものを「これが私を救ってくれる」としてしまう。私たちの心にも、金の子牛を造る工房があります。
2彼らは「別の神」を拝んだ訳ではない
ここで大切なのは、イスラエルの民が、単純に「今日からバアルを拝みます」「マモンを神にします」と宣言したのではないことです。
アロンは祭壇を築き、出エジプト記32章5節で「明日は主の祭りを行う」と宣言しました。この「主」は、聖書で神のお名前ヤハウェを表す言葉です。つまり彼らは、少なくとも自分たちのつもりでは、エジプトから救い出してくださった主を礼拝していたのです。ただし、主を金の子牛の姿に押し込め、人間に見えやすく、扱いやすく、安心しやすい神へ造り替えました。
十戒の数え方は、教会の伝統によって少し違います。カトリック教会は、「ほかに神があってはならない」と像の禁止を第一戒の中で扱い、最後の「むさぼるな」を二つに数えます。旧約の像の禁止を否定するのではありませんが、御子が人となって見える姿を取られたこと、また像そのものを礼拝するのではなく、像が指す方を崇敬するのだという理解から、聖像を視覚的な手がかりとして用います。
一方、改革派や多くのバプテスト教会は、第一戒を「誰を礼拝するか」、第二戒を「まことの神をどう礼拝するか」と分けます。ルター派は数え方ではカトリックと同じですから、「プロテスタントは全部」と言うと雑です。しかし私たちの伝統では、主ヤハウェを礼拝するためでも、像を通して神を拝んではならない、と受け止めてきました。
それが、改革派やバプテストの礼拝堂が、カトリックの聖堂に比べて、だいぶ殺風景に見える理由の一つです。像より御言葉、祭壇より講壇を中心に置いてきた。簡素な部屋でも牧師や伝統を偶像にできますが、あの簡素さには、「神様を私たち好みの姿に閉じ込めない」という信仰告白があるのです。
3「これだけは絶対に嫌だ」と言われる神
人とお付き合いすると、それぞれ「ここまでは大丈夫」「これは絶対に駄目」という線が違うことに気づきます。お金の貸し借りに大らかな人もいれば、一円でも嫌だという人がいます。机の上に少しくらい物があっても平気な人もいれば、仕事が終わったら何一つ残っていてはいけないという人もいます。部屋の隅に少しくらいほこりがあっても気にならない人もいれば、絶対に許せない人もいます。五分、十分の遅刻なら大目に見る人もいれば、遅刻は一分でも駄目という人もいます。
聖書は、礼拝は必ず日曜日の午前十時半からでなければならない、楽器を使ってはいけない、騒がしくてはいけない、必ず『讃美歌21』でなければならない、新改訳聖書を使ってはいけない、説教を含めて一時間以内に終わらなければならない、とは言いません。礼拝の時刻や音楽や細かな形式には、文化や教会による幅があります。
しかし、何でもよいわけではありません。十戒において神様は、御名をみだりに唱えず尊ぶこと、そして神を像に造り替えて拝まないことについて、はっきり線を引かれます。乱暴な言い方をすれば、「ほかは相談の余地があっても、これだけは性格上、絶対にアウトだ」とおっしゃるのです。
出エジプト記20章5節で、神様は御自身を「熱情の神」と呼ばれます。出エジプト記34章14節には、「主はその名を熱情といい、熱情の神である」とまであります。別の翻訳では「ねたむ神」です。
ただし、これは自信がなくて相手を束縛する嫉妬ではありません。契約を結んで愛した者を、ほかの神や偽物に渡したくないという、神様の激しい愛です。
異性との交際でも、ほかの異性と二人でランチをするところまでなら大丈夫という人もいれば、手をつなぐのは駄目、二人きりで遊びに行ったら全部浮気だ、という人もいるでしょう。
では、配偶者、彼氏、彼女の携帯電話の待ち受けが、自分ではなく、お気に入りの男性アイドル、女性アイドルの写真だったら、皆さんは平気でしょうか。
しかも、「これはあなたの写真です」と言いながら、フォトショップで加工しまくる。鼻を高くし、二重にし、涙袋を膨らませ、小鼻と輪郭をすっきりさせ、ほうれい線を消し、とうとうお気に入りのアイドルそっくりにする。「元の素材はあなたですから」と言われても、余計に嫌ではないでしょうか。
金の子牛とは、それです。
「これはヤハウェ様です」と言いながら、人間の好みに合わせて加工しまくった神です。あえて耳に残る言い方をすれば、「ヤハウェさんは、それが絶対に嫌なんです」。
神様の聖さを考えれば、生理的に受け付けない、とでも言いたくなるほどです。それは神様の心が狭いからではありません。偽物の神は、愛する人間を必ず壊すからです。
4 偶像を拝む者は偶像のようになる
詩編115編4~8節は、偶像には口があっても話せず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、手があってもつかめず、足があっても歩けない、と語ります。そして8節は、偶像を造る者も、それに依り頼む者も、偶像と同じようになる、と言います。
人間は本来、創世記1章26~27節にあるように、神のかたちに造られました。自分で考え、愛し、応答し、神様と語り合う者として造られたのです。
それなのに、人間が自分の手で造った木偶の坊や石ころや金属の塊にひれ伏し、それに似て、神の声を聞けず、隣人の痛みを見られず、助けを求める声に手を伸ばせない者になっていく。
神様が偶像礼拝に憤られるのは、御自分の面子をつぶされたからだけではありません。「わたしは、あなたをそんなものとして造ってはいない」と悲しまれるからです。
偶像礼拝は、神様への冒涜であると同時に、神のかたちに造られた人間が偶像以下へ身を落としていく罪なのです。
5 神様に口答えしたモーセ
神様は、この民を滅ぼし、モーセから新しい民を起こすと言われました。ところがモーセは、「分かりました。では私からお願いします」とは言いません。出エジプト記32章11~13節で、神様に食い下がります。
「どうして御自分の民に怒りを燃やされるのですか。エジプト人に、神は悪意をもって民を連れ出したと言わせてよいのですか。アブラハム、イサク、イスラエルに与えられた約束を思い起こしてください。」
モーセは、言ってみれば神様に口答えをしました。しかし、神様御自身の約束にしがみつく「聖なる口答え」です。
14節には、主が災いを思い直された、とあります。神様が気まぐれに変わったのではありません。罪を裁く正義と契約を守る愛、その両方が、モーセの執り成しを通して現れたのです。
偶像礼拝を嫌われる神様だから、触らぬ神にたたりなし、黙って離れておこう、ではないのです。この神様は、御自身の約束を根拠に、「どうか憐れんでください」と本気で語りかけることを許してくださる。それどころか、そのような執り成しを望み、祈りを救いの御業の中に用いてくださいます。
6 牧師として厳しさを隠せない
今日の朗読箇所より先の出エジプト記32章26~28節では、モーセのもとに集まったレビの子らが、偶像礼拝に加わった者を討ち、およそ三千人が倒れます。29節でモーセは、彼らが「主の祭司としての任務を受けた」と語ります。
厳密に言えば、祭司はレビ族の中でもアロンとその子孫で、ほかのレビ人は祭司の務めを助けます。しかし、この出来事はレビ族が主の奉仕へ取り分けられていく決定的な転機です。申命記10章8節にも、レビ族が主の契約の箱を担い、主の前に立って仕えるために取り分けられた、とあります。
これは、新約の教会が偶像礼拝者を暴力で裁いてよいという命令では、決してありません。主イエスはマタイによる福音書26章52節で、剣を取る者は剣で滅びると教えられました。教会に与えられたのは、人を傷つける剣ではなく、悔い改めと赦しを告げる御言葉です。
けれども、偶像礼拝は大した問題ではない、と軽くすることもできません。
私は牧師です。レビ人が主の側に立ったように、神様が「これはあなたを滅ぼす」と言われるものを、耳ざわりが悪いからとオブラートに包み、「まあ、気にしなくて大丈夫です」と言うわけにはいかない。
神様は偶像礼拝を、本気で嫌われます。それほど本気で、私たちを愛しておられるからです。
7 「わたしの名を消しても」と執り成す方
そして、モーセの執り成しはさらに深まります。出エジプト記32章31~32節で、モーセは民の罪の赦しを願い、「もし、それがかなわなければ、あなたが書き記された書から、このわたしを消し去ってください」と祈ります。
この「書」は、まず神の前に生きる者たちの登録簿を思わせます。そして聖書全体では、黙示録20章12節、15節、21章27節に出てくる「命の書」へとつながっていきます。黙示録20章15節では、命の書に名のない者が最後の裁きを受けます。
ですから、新約の光からあえて強く言い換えるならば、モーセは「この民が救われるためなら、私の命も、私の将来も、私自身の救いさえ失い、私が裁かれてもよい」と言うほどの覚悟で執り成したのです。
これは、最初の人アダムがエバのために言わなければならなかったような言葉です。ところがアダムは、創世記3章12節で、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が」と、エバをかばうどころか、エバと神様のせいにしました。
モーセは、罪ある民と共に滅びてもよいと願いました。しかし、モーセ自身も罪人ですから、ほかの罪人の身代わりにはなれません。実際、神様は33節で、罪を犯した本人を御自分の書から消す、と答えられます。モーセは真の仲保者を指し示すことはできても、真の仲保者そのものにはなれませんでした。
しかし、福音はここで終わりません。
最初のアダムが言わず、モーセが願っても実現できなかったことを、コリントの信徒への手紙一15章45節が示す「最後のアダム」、イエス・キリストが成し遂げてくださいました。
イエス様は、「この人たちを救うなら、わたしが裁きを受けます」と、口で言われただけではありません。十字架で本当に私たちの呪いを引き受け、神から捨てられた者の場所に立ってくださいました。ガラテヤ書3章13節が語るように、キリストは私たちのために呪いとなって、私たちを贖ってくださったのです。
しかも、十字架で終わりません。主は復活されました。ローマ書8章34節は、復活されたキリストが神の右に座って、今も私たちのために執り成しておられる、と語ります。
私たちは不安になると、見える神を造ります。お金、成功、人の評価、政治、立派な教会、有名な牧師を、救い主のように握ります。
しかし神様は、罪の中にいる私たちを見捨てられませんでした。人間が造った見える神ではなく、神様御自身が、御子イエス・キリストにおいて私たちのところへ来てくださいました。
キリストはコロサイの信徒への手紙1章15節が語る「見えない神の姿」です。しかしそれは、私たちが好みに合わせて加工した神ではありません。神様が御自身を、そのまま示してくださったお姿です。
偶像礼拝の禁止は、ただ厳しいだけの命令ではありません。
「偽物にあなたの人生を渡すな。あなたを造り、あなたを贖った、わたしのもとへ帰って来なさい」
これは、熱情の神からの招きです。
まだキリストを信じていない方は、見える何かを救い主にすることをやめて、あなたのために十字架にかかり、復活された主に信頼してください。信じている私たちも、自分の心の中の金の子牛を、今朝、主の前に差し出しましょう。
私たちが立派になったから救われるのではありません。偶像を一つ残らず捨てられた人だけが救われるのでもありません。
偶像を造ってしまう私たちのために、キリストが執り成し、十字架で罪を負い、復活してくださった。
この福音を、今朝もう一度受け取りましょう。アーメン。
※サムネイルは二コラ・プッサン作「金の子牛による礼拝」


コメント