使徒5章17~42節 消スト増エマス 福音のストライサンド効果

説教

1.「消すと増えます」

今朝、私たちに与えられている御言葉は、使徒言行録5章17~42節です。

皆さんは、インターネットで「消すと増えます」という言葉を見たことがあるでしょうか。

特に、ひと昔前のニコニコ動画などでは、誰かが運営に削除を依頼し、動画が消されると、今度は別の人が同じ動画を再びアップロードする。それを消すと、さらに増える。「再うp」と書かれた動画が、次々に現れることがありました。

そこでついた言葉が、「消すと増えます」です。

もちろん、著作権侵害など、本来は削除されるべきものもありますから、再投稿を勧める話ではありません。

ただ、人間には、「絶対に見てはいけません」と言われると、かえって見たくなるところがあります。「検索しないでください」と言われたら、「いや、それは検索してくれと言うてるようなものやないか」と思ってしまう。

何でもない情報だったのに、隠そうとしたために、「何が書いてあったのだろう」「なぜ、そこまでして消したいのだろう」と注目が集まってしまいます。

このような現象を「ストライサンド効果」と呼びます。

この名前は、アメリカの歌手で女優のバーブラ・ストライサンドに由来します。

2003年、写真家のケネス・アデルマンさんが、カリフォルニアの海岸侵食を記録するため、海岸線を空から撮影していました。その何千枚もの写真の一枚に、たまたまストライサンドさんの邸宅が写っていました。

ストライサンドさんは、その写真の削除と多額の損害賠償を求めて裁判を起こします。

ところが、その写真は裁判前には、わずか6回しかダウンロードされていませんでした。そのうち2回は、ストライサンドさん側の弁護士によるものだったと言われています。ほとんど誰も見ていなかったのです。

しかし、「有名女優が、自宅の写真を消すために裁判を起こした」というニュースが流れると、「どんな写真なのだろう」と関心が集まり、そのサイトには一か月で42万人以上が訪れました。

隠そうとしたために、かえって世界中に知られてしまったのです。

今朝の聖書箇所でも、これとよく似たことが起こります。

権力者たちは、イエス・キリストの福音を消そうとしました。しかし、消そうとすればするほど、福音は広がっていったのです。

2.牢に入れたはずなのに、神殿で語っている

当時、使徒たちは、エルサレムで主イエスの十字架と復活を宣べ伝えていました。病人が癒やされ、多くの人々が主を信じ、教会に加えられていきます。

それを見た大祭司やサドカイ派の人々は、「ねたみに燃えて」使徒たちを捕らえました。

彼らは、神を守っているつもりだったのかもしれません。しかし実際には、神を守っていたのではありません。自分たちの立場を守っていたのです。

これは、誰か特別に悪い人だけの話ではありません。

子どもも、大人も、牧師も、長く教会に来ている人も、みんなこの言葉の前に立たされます。自分が中心でいたい。自分の言葉が評価されたい。自分よりほかの人が用いられると、おもしろくない。私たちの中にも同じ罪があります。

大祭司たちは使徒たちを公の牢に入れました。

「これで終わりだ。鍵もかけた。見張りもつけた。明日、処分すればよい」

ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開き、使徒たちを連れ出して言いました。

「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい。」

「危ないから、しばらく身を隠しなさい」ではありません。「ほとぼりが冷めるまで、発信を控えなさい」でもありません。

捕まったその場所に戻って、語りなさいと言われるのです。

使徒たちは、夜が明けるころには、もう神殿で教えていました。

一方、大祭司たちは、最高法院を招集し、「囚人を連れて来なさい」と命じます。ところが下役たちが牢に行くと、戸にはしっかり鍵がかかり、見張りも立っているのに、中には誰もいません。

現在なら、防犯カメラを何度も巻き戻して、「いや、どこから出たんや」と頭を抱えるところです。

そこへ、「牢に入れた者たちが、神殿で人々に教えています」という知らせが届きます。

消したはずなのに、増えています。

口を封じたはずなのに、もっと目立つ場所で語っています。

当局が福音にふたをしようとすると、神様がそのふたを開けてしまわれるのです。

3.「見てみろ、もうエルサレム中に満ちている」

使徒たちは再び最高法院に連れて来られました。そこで大祭司は言います。

「我々は、あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広めてしまった。」

この28節には、原文のギリシア語で非常におもしろい表現が使われています。

まず、「ἰδού(イドゥー)」という言葉です。

これは「見よ」「見てみろ」と相手の注意を引く、命令形に由来する言葉です。

大祭司は、ただ「あなたたちは教えを広めましたね」と、静かに事実を確認したのではありません。

「見てみろ! お前たちが何をしたか!」

そう言っているのです。

そして続くのが、「πεπληρώκατε(ペプレーローカテ)」です。「満たした」という動詞の完了形です。

ギリシア語の完了形には、過去に起こったことの結果が、現在まで残っているという響きがあります。

ですから、大祭司の言葉を少し強調して訳すなら、

「見てみろ! お前たちはエルサレムを自分たちの教えで満たしてしまった。しかも、今も満ちたままではないか」

となります。

言い換えれば、

「見てみろ! お前たちは、エルサレム中を福音で溢れさせてしまった!」

ということです。

これは、叱責の言葉です。しかし見方を変えれば、すごい伝道報告です。

「エルサレム中が、イエスの教えで満たされた。」

福音を消したかった人たちが、福音の広がりを公式に認定しているのです。いわば、当局による宣教成果報告です。

使徒たちが、「私たちの伝道は大成功です」と自己評価したのではありません。反対している側が、「見てみろ。もうエルサレム中が福音で満たされているではないか」と言っているのです。

しかし、ここを勘違いしないでほしいのですけれども、使徒たちは、権力に逆らうこと自体を楽しんでいたのではありません。

何でも反対すれば信仰的なのではありません。注意されたとき、自分のわがままを「私は人間ではなく神に従います」と言って正当化してはいけません。

ペトロと使徒たちが、

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」

と言ったのは、自分たちの思想を宣伝していたのではなく、神様から託された福音を語っていたからです。

4.消すことのできない福音

彼らが語った福音とは何でしょうか。

ペトロは、十字架につけられたイエスを神が復活させられたと語ります。そして神は、このイエスを導き手、救い主として御自分の右に上げ、悔い改めと罪の赦しを与えてくださると言いました。

これが福音です。

人間は、神様から離れ、神様の言葉よりも、自分の思いに従って生きています。大祭司たちだけではありません。私たちも、自分を守り、自分の立場を守り、自分が正しいことを証明するために、神様の御心にふたをしてしまいます。

その私たちの罪のために、主イエスは十字架にかかってくださいました。

ただ優しい先生だったのではありません。ただ立派な教えを語った人でもありません。私たちの罪を背負い、私たちが受けるべき裁きを引き受けてくださった救い主です。

しかし、福音は十字架で終わりません。

神様は、主イエスを死者の中から復活させられました。人間がイエスを墓の中に閉じ込めようとしても、墓の石も、番兵も、死そのものも、神の救いを閉じ込めることはできませんでした。

考えてみれば、福音は最初から「消すと増えます」なのです。

イエスを十字架につけて消したつもりが、復活された。

弟子たちを脅して黙らせたつもりが、聖霊に満たされて語り始めた。

使徒たちを牢に閉じ込めたつもりが、翌朝には神殿で語っていた。

福音は、墓にも、牢にも、人間の権力にも閉じ込めることができません。

5.ストライサンド効果を超えて

もっとも、初代教会の福音の広がりは、単なるストライサンド効果ではありません。

普通のストライサンド効果は、「隠されると見たくなる」「消されると広めたくなる」という、人間の好奇心や反発心によって起こります。

しかし、使徒言行録で福音が広がったのは、使徒たちの努力や根性によるものではありません。

聖霊が、福音宣教を推し進めておられたのです。

ペトロは32節で言います。

「わたしたちはこれらの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

証ししているのは、使徒たちだけではありません。聖霊御自身が証ししておられるのです。

4章で、当局はペトロとヨハネに、イエスの名によって語ってはならないと命じました。ところが教会が祈ると、皆が聖霊に満たされ、ますます大胆に神の言葉を語り始めました。

7章でステファノが殉教し、8章ではエルサレムの教会に大迫害が起こります。ところが、散らされた人々は行く先々で福音を告げ知らせました。教会を散らしてつぶしたつもりが、福音はユダヤ、サマリア、アンティオキアへ広がっていったのです。

12章では、ヘロデ王がヤコブを殺し、ペトロを牢に入れます。しかし、その章の最後には、「神の言葉はますます栄え、広がって行った」と書かれています。

そして使徒言行録の最後では、パウロがローマで監視されながらも、「全く自由に何の妨げもなく」神の国を宣べ伝えています。

外から見れば、妨げばかりです。

脅迫、逮捕、鞭打ち、殉教、迫害、投獄。

しかし、使徒言行録の本当の主人公は、使徒たちではありません。聖霊なる神様です。

聖霊が、閉ざされた戸を開きます。

聖霊が、臆病だったペトロを立たせます。

聖霊が、散らされた人々を新しい土地へ遣わします。

聖霊が、人間の失敗や迫害さえ用いて、神の救いの御計画を前へ進めてくださるのです。

6.神から出たものなら、滅ぼせない

使徒たちの言葉を聞いた最高法院の人々は激しく怒り、彼らを殺そうとしました。

そのとき、ガマリエルという律法の教師が立ち上がり、こう言います。

「この者たちから手を引きなさい。この計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。」

ガマリエル自身が、主イエスを信じていたとは書かれていません。それでも、「神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」という言葉は、使徒言行録全体を貫く真理です。

教会が二千年間、福音を伝えてこられたのは、歴代のクリスチャンが強かったからではありません。伝道方法がいつも優れていたからでもありません。

教会は何度も失敗しました。争いもありました。信仰者が福音を台無しにするような姿を見せたこともありました。

しかし、神様は御自分の福音を見捨てられませんでした。

福音が人間の計画ではなく、神様から出た救いだからです。だから、二千年たった今、大阪の我孫子にまで届き、私たちも聞いているのです。

7.私たちがかけているブレーキ

では、私たちはどうでしょうか。

自分で福音にブレーキをかけてはいないでしょうか。

「家族に話しても、どうせ聞いてくれない」

「一度誘って断られたから、もう無理だ」

「信仰の話をしたら、変な人だと思われる」

「自分は聖書に詳しくない」

「自分の生活も立派ではないのに、イエス様のことなど語れない」

そう言って、諦めてはいないでしょうか。

たしかに、家族への伝道は簡単ではありません。家族は、教会の人が知らない私たちの姿を知っています。礼拝ではにこやかでも、家では機嫌が悪いことも知っています。

ですから、家族伝道とは、家族を追い回して毎日説教することではありません。何度断られても、しつこく礼拝に連れて来ることでもありません。

必要なら、まず謝ることです。

相手の話を聞くことです。

困っているときに助けることです。

名前を挙げて祈ることです。

そして機会が与えられたとき、「私は立派だから教会に行っているのではない。罪人だけれども、イエス様に赦していただいたから信じている」と、正直に語ることです。

伝道とは、自分の正しさを証明することではありません。イエス様の恵みを証しすることです。

あなたの言葉が上手でなくてもよいのです。説明が少しくらい不十分でもよいのです。自分が相手を納得させ、信じさせなければならないと思うから、怖くなります。

人を救うのは、私たちではありません。聖霊なる神様です。

私たちの責任は、結果を出すことではありません。聖霊が与えてくださる機会に従うことです。

扉を開くのは神様です。

心に触れるのも神様です。

信仰を起こすのも神様です。

私たちは、自分で風を起こすことはできません。しかし、聖霊の風が吹いているときに、帆を上げることはできます。

せっかく聖霊が風を送ってくださっているのに、「うちの家族は無理です」「私には無理です」と、自分で帆を畳み、錨を下ろしてはいないでしょうか。

ブレーキをかけるのをやめましょう。

福音を自分の中だけに閉じ込めるふたを、開けてみましょう。

神様が心に示してくださる一人の人のために祈りましょう。礼拝に誘ってみましょう。説教動画を一つ送ってみましょう。自分がなぜイエス様を信じているのか、一言でも語ってみましょう。

その後は、神様がよしなにしてくださいます。

すぐに信じてもらえるとは限りません。断られることもあります。しかし、相手の心の中で御言葉がどのように働くかは、私たちには分かりません。

結果の責任は神様が負ってくださいます。私たちは、神様に従う責任を果たせばよいのです。

「大船に乗ったつもりで」と言います。

もっとも、使徒言行録の後半に出てくる船は、嵐に遭って難破します。「どこが大船やねん」と言いたくなります。しかし、その船に乗っていた人々の命を、神様は守られました。

私たちが安心できるのは、船が大きいからではありません。航海が穏やかだからでもありません。神様が共におられるからです。

ですから、大船に乗ったつもりで、福音を伝えましょう。

むしろ怖いのは、語って失敗することではありません。自分の判断で、福音をせき止めてしまうことです。

「この人はどうせ無理だ」

そう決める権利は、私たちにはありません。

かつて、イエス様を三度も知らないと言ったペトロを、神様は福音の証人として立てられました。教会を迫害していたサウロを、異邦人への使徒パウロに変えられました。

私たちが「この人は無理だ」と思っている人にも、神様はすでに働きかけておられるかもしれません。

結び

使徒たちは、鞭打たれ、イエスの名によって語ることを禁じられました。

それでも彼らは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜びました。そして毎日、神殿でも家々でも、教え、福音を告げ知らせ続けました。

消そうとしても、消えませんでした。

閉じ込めようとしても、閉じ込められませんでした。

それは、使徒たちが強かったからではありません。十字架につけられたイエスが復活し、今も生きておられるからです。そして聖霊が、福音を前へ前へと推し進めておられるからです。

まだ主イエスを信じておられない方がいるなら、考えてみてください。

二千年前、権力者たちが消そうとした福音が、今朝、あなたのところにまで届いています。それは、神様があなたを愛し、あなたの罪を赦し、御自分の子どもとして迎えたいと願っておられるからです。

主イエスは、あなたの罪のためにも十字架にかかり、復活してくださいました。この方を救い主として信じてください。

そして、すでに信じている私たちは、今週、一人の人を心に思い浮かべましょう。

家族かもしれません。友人、職場の人、近所の人かもしれません。

その人のために祈りましょう。そして、聖霊が機会を与えてくださったなら、ブレーキを外し、帆を上げ、一歩踏み出しましょう。

私たちの小さな言葉も、小さな祈りも、小さな招きも、主にあって決してむだではありません。

福音を前進させるのは聖霊です。神から出たものを、誰も滅ぼすことはできません。

いつの日か私たちも、こう言われる教会になりたいと思います。

「見てみろ。あなたがたは、この町を福音で満たしてしまったではないか。」

この福音を、今朝もう一度受け取りましょう。そして大船に乗ったつもりで、喜んで伝えてまいりましょう。

アーメン。

※サムネイルはフィリップス・ハレ作「天使によって牢から解放される使徒たち」

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