『チ。―地球の運動について―』原作19話、アニメ8話までのネタバレを含みます。
また、原作の話数に合わせて神学(考察)していきますので、以下の過去作をまだご覧になっていない方はご覧ください。
チ。地球の運動について を神学してみた。|サブカル好きの牧師|note
チ。地球の運動についてを原作に基づいて、週2回くらいのペースで神学(考察)していく予定です。
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正しいと信じた人生が、全部間違っていたら?
原作第19話では、若き日のピャスト伯と、彼に天文学を教えた教授との関係が描かれます。
教授は、長年にわたって完璧な天動説を完成させようとしていました。
しかし、いくら計算しても完成しない。
惑星の動きを説明するために理論を修正すると、今度は別のところでズレが生じる。それを直すと、また別のところに矛盾が出る。
教授は死を前にして、恐ろしい可能性に気づきます。
もし、自分の計算が少し間違っているのではなく、天動説という前提そのものが間違っていたとしたら。
これまでの研究も、費やした時間も、人生そのものも、すべて無駄だったのではないか。
いや、これは怖い。
テストで答えを一問間違えたという話ではありません。人生を懸けて信じてきたことが、土台から崩れるかもしれないのです。
そこで今回は、「間違った真理にのめり込む怖さ」について、本物のキリスト教の牧師である私が神学――もとい、考察してみます。
「間違った真理」という矛盾
そもそも「間違った真理」という言葉は、少し変です。
真理なら間違っていないはずです。
正確に言えば、「自分が真理だと信じ込んでいる間違い」でしょう。
しかし、人間にとって厄介なのは、真理そのものと、自分が真理だと思っているものの区別が、だんだんつかなくなることです。
最初は「この説が正しいのではないか」と考えていただけだった。
ところが、何年も研究し、時間を費やし、人から評価され、その説によって自分の居場所まで与えられると、いつの間にか、その説を守ることが自分自身を守ることになります。
「この説が間違っている」と言われただけなのに、「お前の人生は無意味だ」と言われたように感じる。
こうなると、真理を探していたはずの人が、真理から自分を守り始めます。
実はここが面白いのです。
ピャスト伯の教授が恐れたのは、単に計算の失敗ではありません。
「私は間違っていた」という事実によって、「私の人生は無駄だった」と宣告されることでした。
だから、人は間違いを認められなくなる。
これ、現代風に言えば「ここまでやったのだから、今さら引き返せない」というサンクコストの罠です。ソシャゲに課金しすぎて、面白くなくなっているのにやめられない。もとい、少し例が軽すぎました。
しかし構造は同じです。
間違った道を歩いているとき、長く歩いたことは、その道が正しい証明にはなりません。むしろアクセルを踏めば踏むほど、目的地から遠ざかることもあります。
熱心であることと、正しいことは違う
聖書は、この問題について意外なほど冷静です。
パウロはローマの信徒への手紙で、こう書いています。
「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません」
熱心である。
一生懸命である。
人生を懸けている。
だから正しい――とは限らないのです。
これはキリスト教徒にとって、かなり耳の痛い言葉です。
キリスト教の歴史には、「自分は神に仕えている」と信じながら、人を傷つけた例がいくらでもあります。
イエス・キリストも弟子たちにこう警告しました。
「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」
人を殺しながら、「これは神への奉仕だ」と信じる。
めちゃくちゃです。
しかし本人はふざけているのではありません。むしろ真剣なのです。真剣だからこそ、止まれない。
後に使徒となるパウロ自身も、最初はキリスト教徒を迫害していました。彼は神に逆らっているつもりではありません。神に熱心であるからこそ、教会を潰そうとしたのです。
善意は、間違いを無害にはしてくれません。
信念の強さも、内容の正しさを保証してくれません。
「私は本気です」と言われても、間違った方向へ本気で走っている可能性はあるのです。
天動説を信じた人々は、全員愚かだったのか
ただし、ここで「昔の人は天動説なんか信じていて愚かだった」と笑うのも違います。
プトレマイオスの天動説は、単なる迷信ではありませんでした。惑星が途中で逆向きに動くように見える「逆行」などを説明するために、周転円と呼ばれる複雑な円運動を組み合わせた、かなり高度な数学モデルです。
実際、天体の位置を予測する計算体系として長く用いられました。NASAの解説も、プトレマイオスの計算法には、天文学者や航海者の必要を満たすだけの精度があったと説明しています。
つまり、まったく何の根拠もない妄想に、みんなでのめり込んでいたわけではありません。
観測できる事実をできる限り説明しようとして、真面目に計算を積み重ねた。その結果として、天動説という壮大な体系が作られました。
だからこそ、間違いを認めるのが難しかったのです。
雑な理論なら簡単に捨てられます。
しかし、よくできた理論、尊敬する教授から受け継いだ理論、自分の人生を支えてくれた理論ほど、手放すのは難しい。
これは科学だけではありません。
教会でも、「昔からそう教えられてきた」「尊敬する牧師がそう言っていた」「この方法で教会が成長した」という理由で、一つの聖書解釈や教会の習慣が絶対化されることがあります。
しかし、尊敬する先生が間違えることはあります。
牧師も間違えます。言わずもがな、私も間違えます。
聖書が真理であると信じることと、自分の聖書解釈は絶対に正しいと信じることは、おんなしではありません。
説教を作っていても起こります
私も説教を準備していて、「この話は使えるぞ」と思いつくことがあります。
導入も面白い。
結論も感動的。
自分らしい個性も出ている。
ところが、聖書本文を丁寧に調べると、その解釈では無理があると分かることがあります。
そのとき、どうするか。
本当は捨てなければなりません。
しかし、すでに何時間もかけている。「いや、このくらいなら押し切れるのでは」と悪魔がささやく。もとい、自分の未練がささやく。
そんなとき、「せっかく作ったのだから」という理由で使ってしまえば、聖書から説教するのではなく、自分の説教に聖書を従わせることになります。
これはまさに、真理を求めていたはずの人が、自分の理論を守り始める瞬間です。
間違いだった人生は、無意味なのか
では、教授が恐れたように、間違った理論に費やした人生は、すべて無駄なのでしょうか。
私は、そうではないと思います。
天動説そのものは間違っていました。しかし、天動説を研究した人々が残した観測記録まで間違いになるわけではありません。
彼らが何年もかけて記録した惑星の位置や動きは、後に別の宇宙像を作る人々の材料になります。
科学の歴史は、正解だけを積み上げてきた歴史ではありません。以前の理論が解いた問題や集めた記録の一部を、次の理論が受け継ぎながら進んできました。スタンフォード哲学百科事典の「科学の進歩」でも、誤りを含む過去の理論と科学の進歩をどう考えるかが論じられています。
間違っていたことと、無意味だったことは同じではありません。
むしろ、自分たちの理論を打ち破るための観測記録まで残したのなら、それは皮肉であると同時に、研究者としての誠実さでもあります。
教授がピャスト伯に託したものは、完成した真理ではありません。
間違っているかもしれない研究の続きを、それでも真理を求めて確かめてほしいという願いです。
真理を愛するとは、自分の間違いを認めること
「私は真理を持っている」と言うのは簡単です。
しかし、本当に真理を愛するとは、自分の考えが真理によって否定される可能性を受け入れることです。
信仰も同じです。
神を信じることは、「私は絶対に間違わない」と宣言することではありません。
むしろ、「私は間違える。しかし神は真実である」と認めることです。
自分の解釈が修正されても、神まで崩れるわけではありません。
長年信じてきたことを問い直しても、人生のすべてが無意味になるわけではありません。
間違いを認めることは、これまでの人生を捨てることではなく、その人生を次の真理へ手渡すことなのかもしれません。
原作第19話のピャスト伯は、真理を求めながら、真理によって自分の人生を否定されることを恐れています。
しかし同時に、完全に目を閉じることもできません。
真理は見たい。
でも、自分が間違っていたとは知りたくない。
この矛盾の中でもがくピャスト伯を、単なる頑固な老人として描かないところに、作者・魚豊先生の考証の深さと、人間を見る目を感じます。


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