民数記13章25節~14章10節 巨人より大きな神様
導入――同じものを見ても、同じ結論にはならない
今朝与えられている御言葉は、民数記13章25節から14章10節です。イスラエルの十二人の斥候が、約束の地を偵察して帰って来た場面です。
十二人は、同じ日に出発し、同じ道を歩き、同じ町を見て、同じ土地の実りを味わいました。そして、同じ巨人を見ました。ところが、帰って来た十二人の結論は、真っ二つに分かれます。
十人は言います。「無理です。あんな相手には勝てません」。ヨシュアとカレブは言います。「上って行きましょう。主が私たちと共におられます」。
見たものが違ったのではありません。十二人とも、あの巨人をこの目で見ています。それでも結論が違った。なぜでしょうか。
十人は、巨人と自分たちを比べました。ヨシュアとカレブは、巨人と神様を比べました。
ここに、今朝の御言葉の中心があります。信仰とは、怖いものを見ないふりをすることではありません。病気もない、老いもない、失敗もない、と言い張ることでもありません。信仰とは、現実の巨人をきちんと見たうえで、その巨人よりも大きな神様を見ることです。
1.約束の地は、もう目の前だった
イスラエルの民は、かつてエジプトで奴隷でした。自分たちの力では、そこから一歩も出られませんでした。しかし神様は彼らの叫びを聞き、モーセを遣わされました。過越の夜には小羊の血で彼らを守り、紅海に道を開き、荒れ野ではマナを降らせ、岩から水を出してくださいました。
神様は繰り返し、「わたしはあなたたちを、乳と蜜の流れる土地へ導く」と約束してこられました。そして今、民はその入口、カデシュにまで来ています。
そこで十二人の斥候が、部族ごとに一人ずつ選ばれました。名もない若者を適当に選んだのではありません。彼らは四十日かけて土地を調べ、証拠のぶどうまで担いで帰って来ました。二人がかりで棒に担ぐほどの一房です。ざくろも、いちじくもありました。「そこは確かに乳と蜜の流れる所でした」。
神様の約束は、本当だったのです。
ところが、その報告には「しかし」が続きます。「しかし、住民は強く、町々は城壁で囲まれ、とても大きい。アナクの子孫も見た」。
この一言から、報告の空気が変わります。土地は良い。しかし、敵が強い。神様の約束は確かに見えた。しかし、城壁も見えた。
私たちにも、この「しかし」があります。神様は愛してくださる。しかし、私の失敗はあまりにも大きい。神様は共におられる。しかし、病気は治らない。教会には福音がある。しかし、人は少なく、高齢化している。あの人にも救われてほしい。しかし、あの人が教会に来るなんて考えられない。
神様の約束の後ろに、私たちは大きな「しかし」を置きます。そして、その一言で、神様のお言葉を全部ひっくり返してしまうのです。
2.恐れは、巨人を大きくし、神様を小さくする
カレブは、不安に包まれ始めた民を静めて言いました。「断然上って行くべきです。必ず勝てます」。ところが十人は言います。「あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」。
誤解してほしくないのですが、十人が報告した危険は、でたらめではありません。城壁があったのは事実です。強い民が住み、背の高いアナク人がいたのも事実です。ヨシュアとカレブだけが現実を知らない楽天家で、「まあ、なんとかなるって」と言っていたわけではありません。それで何とかなるなら、誰も苦労はしません。二人も同じものを見ています。
問題は、事実を見た後です。十人の言葉は次第に膨らんでいきます。初めは「強い人々がいる」でした。やがて「そこで見た民は皆、巨人だった」となり、最後には「自分たちがいなごのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう」とまで言い出します。相手が自分たちをどう見たかなど、聞いていないはずです。恐れは、まだ起きていないことを、もう起きたことのように語ります。
恐れの眼鏡をかけると、巨人はどんどん大きくなり、神様はどんどん小さくなります。
ついに民全体が声を上げて泣き明かし、モーセとアロンに不平を言いました。「エジプトで死んでいればよかった。なぜ主は、私たちをこの土地に連れて来て、剣で倒そうとされるのか。エジプトへ帰る方がましだ」。あれほど助けを求めて叫んでいた奴隷の国が、いつの間にか「帰った方がましな場所」になっています。子どもを殺され、重労働で苦しめられていた記憶まで、美しく塗り替えられてしまいました。
そして何より深刻なのは、民が神様の御心を疑ったことです。救うためにここまで導いてくださったのに、「私たちを殺すために連れて来たのだ」と言う。愛してくださった神様を、最後には自分たちを裏切る方だと決めつけるのです。
不信仰とは、単に「自信がない」ということではありません。神様の力を小さく見、愛を疑い、良い御心を悪く受け取ることです。これは、信仰の弱い誰かだけの話ではありません。苦しみが長引くと、私たちもまた「神様は本当に私を愛しておられるのか」「どうせ最後には見捨てられるのではないか」と思ってしまうのです。
3.信仰は、「自分ならできる」と叫ぶことではない
民の言葉を聞いたモーセとアロンは、会衆の前でひれ伏しました。ヨシュアとカレブは衣を裂きました。深い悲しみのしるしです。
そして二人は言います。「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。その土地の民を恐れてはならない。主が我々と共におられる」。
十人と二人の違いはどこにあるでしょうか。十人は「彼らは私たちより強い」と言いました。ある意味で、それは正しいのです。おそらく軍事力も、体格も、イスラエルより上でした。けれどもヨシュアとカレブは、「私たちの方が強い」と言い返したのではありません。二人が言ったのは、「主が私たちと共におられる」でした。
信仰とは、「私ならできる。私は強い」と自分に言い聞かせることではありません。聖書は自己暗示の本ではないのです。私たちは弱く、どれだけ頑張っても動かせない城壁があります。けれども、私たちより大きな巨人が、神様より大きいわけではありません。
私たちが強いから進めるのではなく、主が共におられるから進めるのです。小さな子どもが、大きな犬を見て怖がり、お父さんの後ろに隠れてその手をぎゅっと握ることがあります。その子は急に犬より大きくなったわけではありません。それでも安心できるのは、自分より大きく、自分を守ってくれる人が一緒にいるからです。
信仰の価値は、私たちの信仰心の大きさにあるのではなく、信頼している神様の大きさにあります。震える手であっても、キリストの御手につながっているなら、その手は決して見捨てられません。
ところが会衆は、ヨシュアとカレブを石で打ち殺そうとしました。恐れに支配された心は、希望の言葉さえ敵に見えてしまうのです。その瞬間、主の栄光が臨在の幕屋に現れました。人々は二人を黙らせようとしましたが、神様御自身がその証言の正しさを明らかにされました。多数決で神様の約束が間違いになることはありません。十対二でも、神様が共におられる方が多数です。
4.待たされても、消えない約束
この後、イスラエルの民は四十年間、荒れ野を旅することになります。ヨシュアとカレブが正しかったからといって、二人だけすぐ約束の地へ入れたわけではありません。二人も民と一緒に、長い荒れ野の年月を歩きました。
ですから、「神様を信じれば、明日には問題が全部なくなる」という話ではありません。信仰を持っていても、病気が続くことがあります。祈っても、関係がすぐには変わらないことがあります。正しい選択をしたのに、長く待たされることもあります。ヨシュアとカレブも、その痛みを知っていました。
それでも神様は、約束をお忘れになりませんでした。人間の不信仰によって遠回りは生じても、神様の救いの計画が消えることはないのです。
聖書は、やがてヨシュアよりもさらに大いなる救い主を示します。「ヨシュア」には「主は救い」という意味があり、新約聖書の言葉では「イエス」と同じ名前です。旧約のヨシュアは民を率いてヨルダン川を渡りました。しかしイエス・キリストは、誰にも越えられない罪と死という川を越えて、私たちを永遠の御国へ導いてくださる、まことの救い主です。
イスラエルは四十日の偵察の後、神様を信頼できませんでした。しかし主イエスは、四十日間荒れ野で誘惑を受けたときも、父なる神を信頼し、その御言葉に従い抜かれました。私たちが何度も失敗したところで、イエス様は忠実であってくださったのです。
私たちの前に立ちはだかる最大の巨人は、病気や貧しさ、孤独だけではありません。神様に背を向け、自分を中心に生きてしまう罪です。そして、どんな人も最後には飲み込んでしまう死です。この巨人には、誰も自分の力で勝てません。「もっと前向きになれば」「もっと立派になれば」と言われても、私たちは罪の前でも死の前でも、いなごのように小さな者です。
しかし神様は、罪の中にいる私たちを見捨てられませんでした。独り子イエス・キリストを、この世界に送ってくださいました。
十字架の日、罪と死の方が勝ったように見えました。イエス様は捕らえられ、侮辱され、釘で打たれ、息を引き取られました。墓の入口には大きな石が置かれ、弟子たちは逃げ、希望は閉じ込められました。あの石こそ、「もう無理だ」と語る巨大な城壁でした。
ところが三日目の朝、神様はその石を取りのけ、イエス様を死者の中から復活させられました。人間が越えられなかった死の壁を、キリストが打ち破ってくださったのです。
十字架では、私たちの罪の裁きをイエス様が引き受けてくださいました。復活によって、罪の赦しと新しい命への道が開かれました。これが福音です。私たちが立派になったから救われるのではなく、巨人に勝てるほど強くなった人への褒美でもありません。自分では勝てない罪人のために、キリストが勝ってくださった。その勝利を、ただ信仰によって受け取らせていただくのです。
5.あなたの前にいる「巨人」は何でしょうか
今、皆さんの前には、どのような巨人が立っているでしょうか。医師から告げられた病名かもしれません。何度話しても埋まらない家族との溝、減らない借金、決まらない仕事かもしれません。何度やめようとしても繰り返してしまう罪や依存、年を重ねてできることが一つずつ減っていく恐れかもしれません。
教会にも巨人が見えます。人数が少ない。若い人がいない。この先どうなるのだろうと思います。現実を見れば、不安になる材料はいくらでもあります。
けれども、巨人がいることは、神様がおられない証拠ではありません。むしろ自分の力ではどうにもならない場所でこそ、「主が私たちと共におられる」という御言葉が、ただの飾りではなくなります。
神様は、「巨人などいないと思い込みなさい」とは言われません。「あなた自身が巨人になりなさい」とも言われません。「恐れているあなたのところに、わたしが共にいる」と言われるのです。
ですから信仰とは、一度も怖がらないことではありません。怖くても、もう一度神様の方を見ることです。「無理かもしれない」という声が心に響くとき、「それでも主は共におられる」と御言葉を握り直すことです。一人で握れないときは、教会の兄弟姉妹に一緒に祈ってもらってよいのです。教会は、何でも一人で克服できる強い人の集まりではなく、赦された罪人が、倒れそうな互いの手を支えながら、恵みによって歩む群れです。
そして、私たちの願った時、願った形で、地上の問題がすべて解決するとは限りません。それでも、最後の言葉を語るのは巨人ではありません。病気でも、過去の失敗でも、死でさえもありません。十字架につけられ、復活されたイエス・キリストが、最後の言葉を語られます。
その言葉は、「あなたは見捨てられていない」「あなたの罪は赦される」「わたしがあなたと共にいる」「わたしがあなたを永遠の御国まで導く」という約束です。
結び――大きな信仰ではなく、大きな神様を見る
十二人は、同じ土地を見ました。同じ実りを見ました。同じ城壁を見ました。同じ巨人を見ました。しかし十人は巨人の向こうに神様を見失い、二人は巨人のさらに向こうに、約束を守られる神様を見ました。
今朝、神様は私たちに、「もっと強い人間になりなさい」と言っておられるのではありません。「わたしを見なさい。わたしが共にいる」と語っておられます。
まだイエス・キリストを信じておられない方がおられるなら、信仰とは、自分にできないことを無理にできると思い込むことではありません。自分では背負いきれない罪も、越えられない死も、イエス様にお任せすることです。「主よ、私は小さな者です。けれども、あなたは私よりも、私の罪よりも、死よりも大きなお方です。私を救ってください」と祈ってよいのです。
すでに信じている私たちも、もう一度この福音を受け取りましょう。私たちの信仰が大きいから救われるのではなく、私たちの神様が大きいから救われるのです。私たちの握力で救いにしがみつくのではなく、十字架の傷を持つキリストの御手が、私たちをしっかり握ってくださっています。
巨人は確かにいます。城壁も確かにあります。しかし、主もまた確かにおられます。そして主は、巨人よりも大きなお方です。
「主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」。
この御言葉に押し出されて、約束を信じる一歩を、今週も踏み出してまいりましょう。私たちの小さな労苦も、主にあって決してむだではありません。十字架と復活の主が、御国に至るまで、私たちを決して離されないからです。
アーメン。
サムネイル右下はイスラエル旧観光省のマーク


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