使徒7章1~60節 最初の殉教者ステファノ

使徒7章1~60節 最初の殉教者ステファノ(2026-09-13 礼拝説教) 説教

使徒7章1~60節 最初の殉教者ステファノ

聖書箇所:使徒言行録7章1~60節

1.使徒言行録の中でいちばん長い「説教」

今朝、私たちに与えられている御言葉は、使徒言行録7章全体です。60節あります。聖書朗読だけでも長さがあります。そして、そのほとんどを占めているのが、ステファノの説教です。正確には、礼拝堂の講壇から語った説教ではありません。最高法院、いわば当時のユダヤ社会における最高の宗教法廷で語った弁明です。

使徒言行録には、ペトロの説教も、パウロの説教も出てきます。しかし、一つのまとまった演説として最も長く記録されているのは、このステファノの言葉です。しかも彼は、十二使徒の一人ではありません。教会の長老として選ばれたとも書かれていません。先週見たように、食事の分配、給仕の務めのために選ばれた七人の一人です。

ところが、その給仕係が説教を始めました。そして今日、その説教者が、教会で最初に命を奪われる殉教者となります。神様は、初代教会最初の殉教という重い栄誉を、ペトロにも、ヨハネにも、ほかの使徒にもではなく、ステファノにお与えになりました。

ステファノは、食卓に仕えるために選ばれた人でした。しかし神様は、どんな務めに就いている人をも、ご自分の証人として用いることがおできになります。私たちはみな、いただいた賜物と置かれた場所で、キリストを証しするように招かれています。

なぜステファノの言葉だけが、これほど詳しく残ったのでしょうか。まるで完全原稿のようです。最高法院の審理記録を、後にルカが用いた可能性も考えられます。あるいは、その場にいたサウロ、後のパウロから聞いたのかもしれません。聖書は資料の入手経路を説明していませんから、断定はできません。

しかし確かなことがあります。ルカは、ステファノの死だけではなく、彼が何を語り、その言葉に人々がなぜ激しく反応したのかを、どうしても後世に残したかったのです。殉教者の血だけを美談にしたのではありません。その血を流すことになった福音の言葉を残したのです。

2.神様は神殿の中に閉じ込められない

ステファノは「兄弟であり父である皆さん、聞いてください」と語り始めます。いきなり相手を罵倒したのではありません。自分を裁く人たちにも敬意を払い、同じ民の一員として語ります。

そして、アブラハムから始めます。ヨセフを語り、モーセを語り、荒れ野の幕屋を語り、ダビデ、ソロモン、神殿へと進みます。創世記から列王記、預言書まで、旧約聖書全体を駆け抜けるような説教です。

しかし、これはただの聖書のおさらいではありません。ステファノは、彼を訴えた人々の告発に答えています。6章で彼は、「モーセと神を冒瀆した」「この聖なる場所と律法に逆らって語った」と訴えられました。つまり争点は、モーセと律法と神殿です。

そこでステファノは言うのです。私はモーセを軽んじてなどいない。モーセは神から命を与える言葉を受けた人です。けれども、あなたがたの先祖は、そのモーセを拒んだではありませんか。また、私は神殿を粗末にしているのではない。しかし、いと高き方は、人の手で造った家の中だけにお住まいになる方ではないではありませんか、と。

考えてみれば、栄光の神がアブラハムに現れたのは、エルサレムではなくメソポタミアでした。神はヨセフと共におられましたが、そこはエジプトでした。神がモーセに現れた燃える柴は、神殿の至聖所ではなく、ミディアンの荒れ野でした。それなのに神は、「あなたの立っている場所は聖なる土地である」と言われたのです。

場所が神様を聖くするのではありません。神様がおられるから、その場所が聖くなるのです。

ここを勘違いしないでほしいのですけれども、だから教会堂なんか要らない、礼拝なんかどこでも同じだ、という話ではありません。神様ご自身が幕屋を造るように命じられ、ソロモンの神殿も神の救いの歴史の中で用いられました。私たちにとっても、共に集まって礼拝することは大切です。

しかし、会堂を大切にすることと、神様を会堂に閉じ込めることは違います。日曜日に礼拝して、「では、また来週」と神様を会堂に置いて帰ってしまう。いや、神様は週一回、この建物の中だけにおられるお方ではありません。家庭にも、職場にも、学校にも、病室にもおられます。荒れ野におられた神は、あなたが独りで涙を流す場所にもおられるのです。

3.神が遣わした救い手を、人は何度も拒んできた

ステファノの説教には、もう一つ、繰り返される旋律があります。それは、「神様が遣わした人を、人間は拒む」という旋律です。

ヨセフは、兄弟たちの命を救うために用いられる人でした。しかし兄弟たちは、ねたんでヨセフを奴隷として売りました。モーセは、イスラエルを奴隷から救うために遣わされる人でした。しかし同胞は、「だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか」と彼を拒みました。荒れ野では、神から命の言葉を受けたモーセに従わず、金の子牛を造りました。預言者たちは、正しい方が来られることを告げました。しかし人々は、その預言者たちを迫害しました。

そして最後にステファノは、急に主語を変えます。それまでは「わたしたちの先祖」と語っていたのに、51節から、「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています」と迫るのです。そして「正しい方」、すなわちイエス・キリストを裏切り、殺したのは、あなたがただと言います。

聴いている人たちは、ステファノに裁判を受けさせているつもりでした。ところが、御言葉を聞くうちに、自分たちのほうが神の前に立たされていたのです。それで彼らは激しく怒り、歯ぎしりしました。

では、私たちはどうでしょうか。「最高法院の人たちはひどいなあ」と、安全なところから石を投げることはできません。これは、誰か特別に悪い人だけの話ではありません。子どもも、大人も、牧師も、長く教会に来ている人も、みんなこの言葉の前に立たされます。

私たちも、神様が自分の思いどおりにしてくださる間は、「神様、感謝します」と言えます。けれども、御言葉が自分の罪を指摘し、方向転換を求めると、急に耳をふさぎます。「その話は今は聞きたくない」「そこまで神様に口を出されたくない」。最高法院の人々は、本当に両手で耳をふさぎました。しかし私たちは、手を使わずに耳をふさぐのが上手です。聞こえなかったことにする。自分に都合のよい説教だけを選ぶ。ほかの人に当てはめて、自分は御言葉の外に立つ。

罪とは、悪いことを何個したかだけではありません。神様が遣わしてくださった救い主を退け、「私の人生の主人は私です」と言ってしまうことです。イスラエルの歴史を通して繰り返された拒絶は、私たちの心の中にもあります。

4.凸凹な説教だからこそ、生々しさと息遣いが聞こえる

さて、この長い説教を旧約聖書と丁寧に読み比べると、「あれ、少し違うな」と感じる凸凹が、四つほどあります。

一つは、アブラハムが父テラの死後にハランを出たという年代の問題です。二つ目は、ステファノが寄留と苦難を400年と語る一方、出エジプト記12章では430年とされることです。400年は創世記15章の約束をそのまま引用した概数、あるいは起点と含める期間の違いと考えられます。三つ目は、ヤコブ一族をヘブライ語本文では70人と数えるのに、ステファノは75人と言うことです。これは当時広く読まれたギリシア語旧約聖書と一致します。四つ目は、先祖たちの埋葬地と土地を買った人物です。創世記では、アブラハムがマクペラの畑を買った話と、ヤコブがシケムの土地を買った話が別々ですが、ステファノの語りでは一つに重ねられたように聞こえます。

これをすぐ「聖書の間違いだ」と決めつける必要はありません。旧約本文、年代や系図の数え方の違いがあります。長い歴史を短く語る中で、複数の出来事をまとめる語り方もあります。逆に、苦しい理屈を積み上げて、「一文字も違って見えてはいけない」と慌てる必要もありません。

私は、この凸凹な説教だからこそ、法廷で命を懸けて語るステファノの生々しさと息遣いが聞こえてくるのだと思います。彼は研究室で脚注を整えているのではありません。敵意に囲まれ、聖霊に満たされ、体に染み込んだ御言葉を一気に語っています。準備した骨格がありながら、その場で言葉がほとばしる。アドリブもあったでしょう。整いすぎてはいない。しかし、だからこそ中心が鮮明なのです。

聖書は、神様が人間を消して、自動書記で書かせた本ではありません。ルカの調査があり、ステファノの記憶があり、語り方があり、その人らしい息遣いがあります。神様は、それを取り去らずに用いて、間違いなく私たちを救いの真理へ導かれます。

大切なのは、70人か75人かでステファノが殺されたのではないということです。人々が耐えられなかったのは、歴史の細かな数字ではありません。「あなたがたは、神が遣わされた正しい方を拒んだ」という福音の告発でした。そしてこの告発は、今も私たちに向けられています。

5.石の雨の向こうに、立っておられるイエスがいる

しかし、福音はここで終わりません。私たちは神の御子を拒みました。けれども神様は、罪の中にいる私たちを見捨てられませんでした。私たちが退けたイエス様は、私たちを救うために十字架にかかってくださいました。

ステファノは、イエス様を「正しい方」と呼びました。ただ優しい先生だったのではありません。ただ立派な教えを語った人でもありません。罪のない正しいお方が、正しくない私たちの罪を背負って死なれたのです。十字架には、人間が救い主さえ拒む罪の深さと、それでも罪人を赦そうとされる神の愛の深さが、同時に現れています。

そして、そのイエス様は復活されました。ステファノが天を見上げると、神の右に立っておられるイエス様が見えました。新約聖書では多くの場合、復活の主は神の右に「座って」おられると語られます。ところがここでは、立っておられます。

なぜ立っておられたのでしょうか。聖書は理由を説明しません。しかし、私はこう思います。主イエスは、ご自分を証しして殺されようとしているステファノを、立ち上がって迎えてくださったのではないでしょうか。地上の法廷は彼を有罪としました。しかし天の法廷では、イエス様が彼のために立っておられます。地上では石が飛んでくる。しかし天は開いているのです。

ステファノは石を投げられながら、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と祈りました。さらにひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫びました。十字架の上で敵を赦し、御自分の霊を父に委ねられたイエス様と、よく似た最期です。

ただし、ステファノがイエス様と同じ救い主になったのではありません。ステファノの死が人の罪を贖ったのでもありません。反対です。十字架で赦されたステファノの中に、イエス様の命が現れたのです。人は、自分の根性だけで、石を投げる相手の赦しを祈ることなどできません。いや、それができたら苦労せえへんねん、という話です。聖霊に満たされ、先に自分が赦されたからこそ、彼は敵の赦しを願うことができたのです。

そして、その祈りを聞いていた一人がいました。若者サウロです。彼はステファノの殺害に賛成していました。人々が石を投げやすいように脱いだ上着を、彼が預かっていました。いわば、殺す側の現場責任者です。

けれども、復活の主は、このサウロをも見捨てられませんでした。やがて彼は主イエスに出会い、使徒パウロとなります。ステファノの祈りがどのようにサウロの回心につながったのか、聖書は直接説明していません。しかし少なくとも、ステファノが最後に見た顔の中に、後のパウロの顔があったのです。

私たちは、自分の証しが誰に届くかを知りません。今は反発している人、耳をふさいでいる人、こちらに石を投げてくるような人の中から、神様が新しい伝道者を起こされるかもしれません。私たちの小さな労苦も、主にあって決してむだではありません。

6.神様は、あなたの献身を求めておられる

ステファノは、立派に死んだから救われたのではありません。命を献げた報酬として天が開いたのでもありません。順番は反対です。彼はすでにキリストに救われ、聖霊に満たされ、天に自分の居場所があることを知っていた。だから、地上の命まで主に委ねることができたのです。

私たちが立派になったから救われるのではありません。信仰も献身も、救いを買う代金ではありません。救いは、罪人にただで与えられる恵みです。献身とは、その恵みを受けた者が、「主よ、この私を、あなたのものとして用いてください」と応答することです。

神様は今朝、あなたの献身を求めておられます。

これは、「全員、殉教しなさい」という意味ではありません。ステファノに与えられた道と、私たちに与えられる道は同じではありません。しかし、パウロがローマの信徒への手紙12章で語るように、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる。それが私たちの礼拝です。

日曜日に礼拝に出て、すぐ帰る。それだけで信仰生活を終わらせないでほしいのです。もちろん、仕事や介護や病気のために、今はそれしかできない人を責めているのではありません。教会は、できる人が、できない人を裁く場所ではありません。教会は、完成した人だけが集まる場所でもありません。赦された罪人が、恵みによって少しずつ育てられていく場所です。

そのうえで、自分に問いかけてみてください。「主よ、私は何を献げることができますか」。祈ることかもしれません。子どもに声をかけることかもしれません。食事を運ぶこと、椅子を並べること、困っている人の話を聞くこと、献金を献げること、職場で誠実に働くこと、まだイエス様を知らない人に自分の希望を語ることかもしれません。人前に立つ奉仕だけが献身ではありません。ステファノも最初は、食卓のために選ばれた人でした。

「私には大したことはできません」と言う人がいます。大丈夫です。神様は、あなたにペトロになるよう求めておられません。パウロになれとも、ステファノと同じ死に方をせよとも言われません。神様が求めておられるのは、ほかの誰かの人生ではなく、あなたの人生です。あなたの時間、あなたの賜物、あなたの弱さまで含めた、あなた自身です。

まだイエス様を信じていない方がおられるなら、まず自分を立派にしてから献げようとしないでください。献げる前に、受け取ってください。あなたのために命を献げ、死から復活されたイエス・キリストを受け取ってください。あなたの罪は赦されます。あなたにも天は開かれています。

すでに主を信じている私たちは、もう一度申し上げましょう。「主よ、私はあなたのものです。食卓でも、家庭でも、職場でも、教会でも、私を用いてください」。石を恐れて、耳をふさいで、主の招きから逃げるのではありません。私たちのために立っておられる復活の主を見上げましょう。

ステファノの説教は、石によって終わらせられたように見えました。しかし福音は終わりませんでした。散らされた人々は各地で御言葉を告げ知らせ、そばにいたサウロさえ、やがてキリストの証人となりました。

石を投げられても、天は開いています。私たちが倒れても、復活の主は立っておられます。私たちの献身が小さく見えても、主はそれを御国のために用いてくださいます。この福音を、今朝もう一度受け取りましょう。そして、赦され、愛され、永遠の命をいただいた者として、私たち自身を主に献げようではありませんか。

アーメン。

※サムネイルはアントニオ・カラッチ帰属「聖ステファノの殉教」

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