『チ。―地球の運動について―』原作22話、アニメ10話までのネタバレを含みます。
また、原作の話数に合わせて神学(考察)していきますので、以下の過去作をまだご覧になっていない方はご覧ください。
チ。地球の運動について を神学してみた。|サブカル好きの牧師|note
チ。地球の運動についてを原作に基づいて、週2回くらいのペースで神学(考察)していく予定です。
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「虹って、なんであんな色をしているんですか?」
「虹って、なんであんな色をしているんですか?」
子どもにこう聞かれたら、みなさんならどう答えるでしょうか。
『チ。―地球の運動について―』の原作第22話、村の子どもたちが修道士クラボフスキに、まさにこの質問をぶつけます。答えに詰まったクラボフスキ、知識の塊みたいな修道士バデーニに丸投げするんですが、バデーニは光と水滴の屈折がどうこうと、めちゃくちゃ専門的な説明を長々と始めるわけです。
正しい。正しいんですけど、たぶん子どもたちは3秒で興味を失って虫を追いかけ始めます。
これ、牧師にもあてはまる話でして。ギリシャ語やヘブライ語をズラッと並べて、会衆がぽかーんとしてるのに「今日はええ説教できたわ」と一人で満足してたら、もうバデーニと同じことをやらかしています。正しいことを知っているのと、相手に伝わるように語れるのは、まったくの別能力なんです。
というわけで、今度は本物の牧師である私が、聖書の中の虹について神学してみようと思います。
聖書は「どうやって」より「何のため」を語る
聖書は、虹がどういう物理現象で起きるかなんて一切説明しません。光が雨粒の中で屈折して反射して……という話は、完全に自然科学の仕事です。
では、聖書と科学は対立しているのでしょうか。
していません。
バデーニが答えようとしているのは、虹が「どうやって」できるかです。一方で聖書が語っているのは、その虹を見た人間が「何を思い出すか」なんです。そもそも問いのジャンルが違います。
聖書に虹が最初に出てくるのは、創世記9章。ノアの大洪水が終わったあと、神様はノアとその家族に契約を与えます。「もう二度と、洪水ですべての命を滅ぼすことはしない」。その契約のしるしとして、雲の中に虹を置く、と語られるんですね(創世記9章8〜17節)。
つまり聖書における虹は、まず「きれいですね〜」で終わる鑑賞物ではありません。
裁きの後に与えられた、神様の憐れみのしるしです。
「虹」って、もともと「弓」だったんです
ここ、地味に面白いところなんですけど。
創世記9章で「虹」と訳されているヘブライ語は「ケシェト」といいます。この単語、普通は「弓」を意味します。アーチェリーのスポーツ用の弓ではなく、戦争や狩りで使う武器としての弓です。
日本語の聖書では「わたしの虹を雲の中に置く」と訳されていますが、ヘブライ語の響きをそのまま直訳すると「わたしの弓を雲の中に置く」になります。
洪水は神の裁きとして描かれた出来事でした。その裁きが終わったあと、神様は御自分の弓を雲に掛けられます。戦いを終えた兵士が、武器を壁に掛けるようなイメージです。
もう全世界を洪水で滅ぼすことはしない。神様が御自分の武器を置いて、平和を宣言しておられるわけです。
(さすがに「虹の弧の向きからして矢はどっちに飛ぶんや」まで聖書が説明しているわけではないです。そこまで言い出すと説教者の想像力が元気すぎるので、自重します。)
でも、「虹」と「戦いの弓」に同じ言葉が使われているのは、間違いなく本当のことです。
虹は、かわいい七色の飾りではありません。
神様が裁きの弓を置かれた、その跡なんです。
神様のほうが虹を見て思い出す、という不思議
もう一つ、創世記9章には不思議なことが書いてあります。
人間が虹を見て神の約束を思い出す、だけではありません。神様御自身が虹を見て、永遠の契約を「心に留める」と言われるんです(創世記9章15〜16節)。
神様が忘れっぽいから空に付箋を貼ったわけではありません。聖書で神様が「思い起こす」「心に留める」と言うとき、それは「その契約に基づいて行動する」という意味を持ちます。
しかもこの契約、ノア一家だけの話ではありません。ノアの子孫、鳥、家畜、野の獣、そして「すべての生き物」と大地まで、全部が対象に入っています。
人間が十分に悔い改めたから? ノアの子孫がもう悪いことをしませんと誓ったから? いや、その後の人類、普通にめちゃくちゃです。歴史を見たらわかります。
それでも神様のほうから、「わたしは滅ぼし尽くさない」と約束してくれているんです。
虹は、人間の善良さの記念碑ではありません。
神様の忍耐の記念碑なんです。
虹は本当に七色なのか
ところで日本では、虹は「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」の七色と習いますよね。聖書にも七色と書いてあるのでしょうか。
書いてありません。
そもそも虹の色に「ここからここまでが赤」という境界線なんて存在しません。連続した光の帯を、人間が勝手に色分けして呼んでいるだけです。虹を七色に整理したことで有名なのは、17世紀のアイザック・ニュートン。プリズムで光を分けて、音階との対応まで考えながら七色にまとめました。15世紀を舞台にした『チ。』の登場人物たちが、現代日本人と同じ感覚で「虹は七色や」と思っていたとは限らないわけです。
神様の栄光を取り囲む虹
虹の話は創世記だけで終わりません。
エゼキエル書1章28節では、神様の栄光を取り囲む輝きが、雨の日の雲に現れる虹のようだったと語られます。エゼキエルがこの幻を見たのは、祖国が滅んで、人々が捕囚にされていた真っ暗な時代です。
さらにヨハネの黙示録4章3節では、神様の玉座の周りに虹が輝いています。10章1節では、天から降ってくる力強い天使が頭に虹を頂いています。新約聖書で虹を表すギリシャ語は「イリス」です。
「黙示録」と聞くと、滅亡とか災害とか裁きとか終末とか、なんか怖いイメージを持たれがちです。ところがその裁きを行う神様の玉座を、虹がぐるっと取り囲んでいるんです。
神様は裁かれます。それでも、契約は忘れません。
神様は聖なる方です。それでも、憐れみは捨てません。
聖書の虹は、「裁きなんか存在しませんよ」という印ではありません。裁きの真っ只中でも、神様の憐れみが最後の言葉を持つ、という印なんです。
雨雲の中にしか出ない約束
虹は、雲一つない青空には出ません。雨が降って、空にまだ雲が残っているときに現れます。
これも、結構象徴的だと思うんです。
聖書の希望は、「つらいことなんか何も起きませんよ」という約束ではありません。ノアの世界には洪水があったし、エゼキエルの世界には亡国があったし、黙示録の世界には迫害がありました。それでも、雲の中に神様の約束は置かれているんです。
雨雲が消えたから希望が生まれるのではありません。雨雲の真っ最中にも、神様の真実は差し込んでくるんです。
クラボフスキに尋ねた子どもたちは、たぶん虹ができる科学的な仕組みが知りたかったんだと思います。それに答えることは、めちゃくちゃ大事です。そのうえで教会は、「聖書では虹に、こんな意味が込められているんだよ」と語ることもできるわけです。
科学が虹の仕組みを解き明かしても、虹の美しさは何ひとつ失われません。聖書が虹に意味を見いだしても、科学が否定されるわけでもありません。
「どうやって」と「何のため」が、同じ空の下で出会う。
この繊細な場面を、子どもの素朴な質問から描き始める『チ。』というマンガ、ほんまに凄くないですか。
次に虹を見たときは、七色を数えるだけでなく、雲に掛けられた神様の弓と、裁きの後にも残された約束のことを、ちらっとでも思い出していただければと思います。


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