使徒8章1~25節 教会が潰れてもなお広がる福音

使徒8章1~25節 教会が潰れてもなお広がる福音(2026-09-27 礼拝説教) 説教

使徒8章1~25節 教会が潰れてもなお広がる福音

聖書箇所:使徒言行録8章1~25節

「ほら見たことか」と言いたくなる朝

今朝、私たちに与えられている御言葉は、使徒言行録8章1節から25節です。

先週、私たちはステファノの説教を聞きました。ステファノは、最高法院の前でイスラエルの歴史を語り、最後には、あなたがたはいつも聖霊に逆らっている、と言いました。

いやあ、よう言うたな、と思います。

もし私が横にいたら、袖を引っ張ったかもしれません。「ステファノさん、言いたいことは分かります。けど、もうちょっと言い方、考えませんか。後が大変ですよ」

そして本当に、後が大変になりました。ステファノは石で打たれて殺されます。8章1節には、その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こった、とあります。

「ほら見たことか。あんなことを言うからや」

そう言いたくなる人もいたかもしれません。

私たちは結果を知っています。教会は迫害され、信徒たちは散らされました。しかし今朝の箇所は、そこで話を終えません。ルカは、散らされた人々がどこへ行き、そこで誰に出会い、何を語ったかを、順番に書いていきます。

その順番に、一緒に耳を傾けたいと思います。

1.教会は散らされ、ステファノは葬られた――1~4節

まず1節から3節です。

使徒たちはエルサレムに残りましたが、多くの信徒たちはユダヤとサマリアの地方へ散って行きます。一方、信仰のあつい人々はステファノを葬り、彼のために深く嘆き悲しみました。そしてサウロは、家々に入って男女を問わず信徒を引きずり出し、牢に送ります。

この三つが、同時に起こっています。

散って行く人がいる。ステファノを葬って泣く人がいる。教会を壊そうと家に押し入るサウロがいる。

「迫害によって福音が広がりました」と一言でまとめると、ここにある痛みを飛ばしてしまいます。家を離れた人たちは、伝道旅行のつもりで出発したのではありません。ステファノの死を悲しむ人たちも、「これで宣教が進みますね」などとは思っていなかったでしょう。悲しいものは、悲しいのです。

神様が悪いことをよいことだとおっしゃったわけではありません。ステファノを殺した人々の罪は罪です。サウロの迫害も、正しいことにはなりません。

それでも4節を読むと、驚かされます。散って行った人々は、行く先々で福音を告げ知らせました。

サウロは教会を潰そうとしました。ところが信徒を散らしたら、福音を知っている人たちまで各地に散って行ったのです。エルサレムに閉じ込めておくことができなくなりました。

ここで、ステファノのことを思います。彼は、自分の言葉の後に何が起こるか、知りませんでした。自分の死の後にフィリポがサマリアへ行くことも、そこで人々がイエス様を信じることも、見ることができませんでした。

それでも神様は、ステファノの証しを無駄にはされませんでした。

ここを勘違いしないでほしいのですけれども、これは「勇気を出して語れば必ずよい結果が見えます」という話ではありません。ステファノは殺されたのです。信仰を語ることには、痛みが伴う場合もあります。

けれども、私たちに見える結果だけで、神様の働きが終わるわけでもありません。

2.フィリポがサマリアへ行った――5~8節

散らされた人々の一人が、フィリポです。6章でステファノと共に、食事の世話をするために選ばれた七人の一人です。そのフィリポがサマリアの町へ行き、キリストを宣べ伝えました。

なぜ、サマリアなのでしょう。

使徒言行録1章8節で、復活されたイエス様は、弟子たちがエルサレム、ユダヤとサマリア、そして地の果てまで、ご自分の証人になると告げられました。これまで教会の歩みは、主としてエルサレムで語られてきました。それが今、サマリアへ進みます。

サマリアは、エルサレムの人々にとって、ただの隣町ではありません。ユダヤ人とサマリア人は、近くに暮らしながら、礼拝の場所や信仰の伝統を巡って、長く対立してきました。簡単に「仲よくしましょう」と言って済む間柄ではなかったのです。

まして、エルサレムの教会が話し合って、「来年度はサマリア宣教に取り組みましょう」と決めたわけでもありません。教会が迫害され、フィリポがそこへ行くことになったのです。

フィリポは何を語ったでしょうか。5節は、キリストを宣べ伝えた、と書きます。

サマリアの人々に合わせて、肝心なところを薄めたのではありません。エルサレムで語っていたのと同じイエス・キリストを語ったのです。

人々はその言葉に耳を傾けました。病や苦しみを抱えた人たちが癒やされ、8節には、その町に大きな喜びが生まれたとあります。

迫害に追われた人が着いた町に、喜びが生まれる。フィリポ自身は、出発したとき、そんなことを予想していたでしょうか。

私たちの予定が狂うことはあります。思っていた場所にいられなくなることもあります。だからといって、その苦しみを「神様のご計画だから、悲しまなくていい」と片づけることはできません。

ただ、その先にも神様はおられます。フィリポがサマリアで知ったのは、そのことでした。

3.サマリア人にも聖霊が与えられた――14~17節

9節から13節に出てくるシモンの話は、後で戻ってきます。その前に、14節から17節を見てください。

エルサレムの使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、ペトロとヨハネを遣わしました。二人がサマリアに着くと、人々はすでにイエス様の名によって洗礼を受けていました。けれども、まだ聖霊は彼らの上に降っていませんでした。ペトロとヨハネが祈って手を置くと、人々は聖霊を受けます。

なぜ、このような順番だったのでしょう。聖書は理由を細かく説明していません。ですから、ここから「洗礼を受けても、必ず後で使徒に手を置いてもらわなければ聖霊はいただけない」という決まりを作るべきではないと思います。

ただ、この場面で何が示されたかは、はっきりしています。

エルサレムから来た使徒たちの目の前で、サマリアの人々にも聖霊が与えられたのです。エルサレムの信徒たちと、サマリアの信徒たちに、同じ主が働いておられる。両者は、別々の福音を信じる二つの教会ではありません。キリストに結ばれた、一つの教会です。

18節には、シモンが聖霊を与えられる出来事を「見た」とあります。何らかの、目に分かることが起きたのでしょう。異言を語ったのではないか、と考える人もいます。ただ、使徒言行録8章は、異言があったとは書いていません。後の10章では、異邦人が聖霊を受けて異言を語ったことが、はっきり記されます。

ですから今朝の箇所では、本文が告げていることを大切にしましょう。サマリア人にも、確かに聖霊が与えられた。 そのことを、エルサレムから来た使徒たちも目の当たりにしたのです。www.bible.or.jp

教会が福音をユダヤ人の社会の中だけで考えていたとしても、神様はそこに閉じ込められません。主は、すでにサマリアの人々を招いておられました。そして今度は、エルサレムの教会にそのことを認めるよう促されたのです。

私はここで、ヨハネのことを思い出します。

かつてイエス様がサマリアの村で歓迎されなかったとき、ヤコブとヨハネは、天から火を降らせて村人を焼き滅ぼしましょうか、と言いました。イエス様は二人を戒められました。

そのヨハネが今、サマリアの人々の上に手を置き、彼らが聖霊を受けるように祈っています。かつて滅ぼしたいと言った相手のために、神様の賜物を祈っているのです。

変えられたのは、サマリアの人々だけではありません。ヨハネも、主に変えられていました。uccj.org

さらに25節では、ペトロとヨハネはエルサレムへの帰り道に、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせています。最初はサマリアで起きたことを聞いて訪ねて来た二人が、帰るときには自分たちもサマリアで伝道している。神様は使徒たちをも、その道へ招かれたのです。

4.シモンは、聖霊をいくらで買おうとしたのか――9~24節

さて、シモンの話に戻りましょう。

9節によると、シモンは以前からサマリアで魔術を使い、人々を驚かせていました。自分は偉大な人物だと称し、人々の注目を集めていたのです。

ところがフィリポが来て、神の国とイエス・キリストを宣べ伝えると、人々はフィリポの語る福音を信じ、洗礼を受けました。シモン自身も信じて洗礼を受けた、と13節に書かれています。そして彼は、フィリポが行うしるしを見て驚き、付き従いました。

ここで気になるのは、シモンが何に驚いていたかです。

町の人々は、以前はシモンの魔術に心を奪われていました。今度はシモンが、フィリポの行うことを見て驚いています。人を驚かせる側だった人が、驚かされる側になったのです。

そしてペトロとヨハネが人々に手を置き、聖霊が与えられるのを見ると、シモンはお金を持って来て頼みます。自分にも、手を置けば人に聖霊を与えられる力を授けてほしい、と。

「ああ、そういう力なんですね。では、いくらですか」

そういう発想です。

シモンは、フィリポの話を聞き、洗礼も受けています。それでも、これまでの考え方から抜け出せていませんでした。人々が注目する力を、自分のものにしたい。しかも欲しがったのは、聖霊を「受ける」ことだけではありません。自分が人に与えられる、その力です。

ここでペトロは、たいへん厳しく叱ります。神様の賜物を金で手に入れられると思ったのか。あなたの心は神の前に正しくない。悔い改めて主に祈りなさい、と。

なぜ、これほど厳しいのでしょう。

お金を出そうとした金額が問題なのではありません。シモンは、神様から無償で与えられる聖霊を、自分が所有して使える力だと思ったのです。神様からいただくものを、買い取って自分の支配下に置こうとしました。

後の教会は、このシモンの名から、霊的なものを金銭で売り買いする行為を「シモニア」と呼ぶようになりました。教会の職や権限を金で買うことも、その一つです。言葉の由来は昔の話ですが、ペトロが叱った問題は、今も分かるのではないでしょうか。vatican.va

「これだけ献金したのだから、神様は願いをかなえてくださるはずだ」

「これだけ奉仕したのだから、教会で自分の意見が通るはずだ」

「こういう方法で伝道すれば、必ず人を信じさせられるはずだ」

お金だけではありません。私たちは、努力や経験や立場によっても、神様を自分の思いどおりに動かしたくなります。

献金も奉仕も、大切です。教会を支える働きへの感謝も、必要です。ただ、それによって神様の恵みを買うことはできません。聖霊は教会の持ち物でも、牧師の持ち物でもありません。神様が与えてくださる賜物です。

ここで、シモンの結末を急いで決めつけないでおきたいと思います。ペトロは彼に「もう手遅れだ」と告げたのではありません。悔い改めて祈りなさい、と言いました。シモンは、自分のために主に祈ってほしいと答えます。その後、彼がどう歩んだかは、この箇所には書かれていません。

聖書が私たちの前に置くのは、シモンを裁いて終わりにする材料ではなく、「あなたの心はどうですか」という問いです。

福音の主人は、誰でしょうか

今朝の箇所には、福音を止めようとする姿が二つ出てきます。

サウロは、教会を迫害して福音を止めようとしました。シモンは、聖霊の力を買い取って自分のものにしようとしました。一方は外から教会を壊し、もう一方は神様の賜物を自分で扱えるものにしようとしたのです。

私たちもまた、福音の行き先を自分で決めたくなることがあります。

「あの人に話したら関係が悪くなるかもしれない」と恐れて、イエス様のことを隠す。あるいは「あの人は教会には合わないだろう」と、聞いてもいないうちから決める。これも、誰に福音が届くかを自分で管理しようとすることではないでしょうか。

だからといって、相手に構わず一方的に話せばよい、ということではありません。話を聞き、相手を大切にし、語る言葉を選びましょう。そのうえで、伝える機会が与えられたなら、福音の中心を隠さずにいたいのです。

私たちは、神様から離れてしまう罪があります。自分の力で自分を救うことはできません。しかし神様は、そんな私たちを見捨てられませんでした。イエス・キリストは私たちの罪を負って十字架にかかり、三日目によみがえられました。この方を信じる者に、罪の赦しと新しい命が与えられます。

福音を受け取るのに、サマリア人がユダヤ人になる必要はありませんでした。シモンも、お金を積む必要はありません。私たちも、立派な人間になってから招かれるのではありません。悔い改めて、キリストの恵みを受け取るように招かれているのです。

ステファノは、語った後の展開を知りませんでした。フィリポも、迫害を受けて町を離れたとき、サマリアで何が起こるか知りませんでした。けれども、主はその先で働いておられました。

ですから、私たちは今日、与えられた場所で証ししましょう。家族に話す一言かもしれません。教会に来た人の話を聞くことかもしれません。誰かのために祈り続けることかもしれません。結果のすべてを、私たちが見届けることはできません。それでも、主は私たちの見えないところでも働かれます。

人々は十字架でイエス様を殺せば、すべて終わると思いました。しかし三日目、墓は空になりました。復活された主が、今も福音の主人です。

迫害されても、福音はサマリアまで届きました。教会が慣れ親しんだ境界の内側にとどまっていても、主は使徒たちをその外へ導かれました。

この主に、私たち自身をお委ねしましょう。そして、主が招いておられる人の前で、勝手に扉を閉めない教会でありたいと思います。

アーメン。

サムネイルはリベラーレ・ダ・ヴェローナ作「魔術師シモン、聖霊を授ける力を得ようとペトロに金を差し出す」

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