『チ。―地球の運動について―』原作23話、アニメ10話までのネタバレを含みます。
また、原作の話数に合わせて神学(考察)していきますので、以下の過去作をまだご覧になっていない方はご覧ください。
チ。地球の運動について を神学してみた。|サブカル好きの牧師|note
チ。地球の運動についてを原作に基づいて、週2回くらいのペースで神学(考察)していく予定です。
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神様、円じゃないかもしれません
惑星は、どんな形で太陽の周りを回っているでしょうか。
今なら小学生でも「楕円」と答えられるかもしれません。ところが、人類がこの答えにたどり着くまでには、ずいぶん長い時間がかかりました。なぜなら昔の人は、天上の世界は完全なのだから、天体は最も完全な図形である円を描いて動くはずだ、と考えていたからです。
『チ。―地球の運動について―』原作第23話で、バデーニは行き詰まっています。計算がどうしても観測記録と合わない。そこで彼の目に入ったのが、壁に二本のピンで留められたオクジーのネックレスでした。
焦点が一つではなく、二つならどうか。
円ではなく、楕円ならどうか。
ひらめいたバデーニは計算を始め、ついには手を合わせます。「神様、合っているかもしれません」と。
ここが実にいい。祈ったら数式が天から降ってきたのではありません。徹底的に考え、観測と計算を重ね、その果てに祈る。信仰が思考を止めるのではなく、思考の先で感動になっているのです。
円は「完全な形」だった
古代以来、円は完全な形だと考えられてきました。始まりも終わりもなく、中心から円周までの距離はどこでも同じ。いかにも永遠で、いかにも神々しい。
だから天体は円運動をする。そう考えたくなる気持ちは分かります。教会のステンドグラスでも、聖人の頭の後ろには丸い光輪が描かれます。四角い光輪では、どうもありがたみが薄い。いや、四角でも神様は困らないと思いますが、見る側がちょっと落ち着きません。
コペルニクスは地球を宇宙の中心から動かしました。しかし、彼も惑星の軌道については円にこだわりました。太陽中心説になっても、「天は完全な円を描く」という常識までは、まだ残っていたのです。
そこへ楕円が登場します。
楕円を意味する英語の ellipse は、ギリシア語の「不足」「欠けていること」に由来します。真円と比べれば、どこか押しつぶされ、完全さに「足りない」形に見えたのでしょう。
ところが、宇宙はその「足りない形」で動いていました。人間が完全だと思った円より、神が実際に造った楕円のほうが正しかったのです。
牧師になりたかった天文学者ケプラー
この発見を史実において成し遂げたのが、ヨハネス・ケプラーです。1571年、現在のドイツ南西部に生まれました。『チ。』の物語から一世紀以上後の人物です。
ケプラーは最初から「宗教を打ち負かしてやろう」と天文学を始めた人ではありません。むしろテュービンゲン大学で神学を学び、牧師になることを望んでいました。しかし数学の才能を見込まれ、グラーツのプロテスタント学校で数学を教えることになります。
彼は後に恩師への手紙で、かつて神学者になりたかったが、今では天文学の働きを通しても神が賛美されている、と書きました。
ケプラーにとって、宇宙を研究することは神から離れることではありませんでした。神の造った世界を読み解く、もう一つの神学だったのです。
ただし、彼の信仰生活は平穏ではありません。カトリックへの改宗を拒んでグラーツを追われ、その一方で、所属するルター派教会とも聖餐理解をめぐって対立し、聖餐から締め出されました。カトリックにも追われ、プロテスタントの中でも浮いてしまう。教会員としては、かなりしんどい人生です。
それでもケプラーは、神を信じることをやめませんでした。
わずか「8分角」を無視しなかった
ケプラーは、当時最高精度の観測記録を残したティコ・ブラーエのもとで働き、火星の軌道と格闘しました。円を組み合わせれば、だいたいは説明できる。ところが、どうしても観測と計算の間に「8分角」のずれが残ります。
8分角は、角度でいえば約0.13度。ほんのわずかな差です。「まあ誤差でしょう」で済ませても、多くの人は怒らなかったでしょう。
しかしケプラーは、その小さなずれを無視しませんでした。観測が正しいなら、間違っているのは世界ではなく、自分の理論のほうです。
何年もの試行錯誤の末、彼は惑星が真円ではなく、太陽を二つの焦点の一方に置く楕円軌道を進むことを見いだしました。1609年に刊行した『新天文学』には、後に「ケプラーの第一法則」「第二法則」と呼ばれる発見が示されます。さらに1619年には、惑星の公転周期と太陽からの距離を結ぶ第三法則を発表しました。
ケプラーは神を捨てたから円を捨てたのではありません。
神を信じていたからこそ、「神が造った世界は、私の思い込みより正しい」と認めたのです。
科学者たちは、神を信じていなかったのか
「昔は宗教が科学を邪魔し、科学者たちは信仰を捨てて真理に到達した」。そんな一直線の物語が語られることがあります。
たしかに、教会が新しい学説を警戒し、権力によって研究者を傷つけた歴史はあります。そこは美化できません。しかし同時に、コペルニクスはカトリック教会の聖堂参事会員であり、ケプラーはルター派のキリスト者でした。ガリレオもカトリック信徒であり、ニュートンも正統教義から外れる部分を持ちながら、聖書と神学を熱心に研究しました。
だからといって「キリスト教が全部の科学を生んだ」と勝ち誇るのも乱暴です。しかし「科学と信仰は最初から敵同士だった」という説明も、歴史を単純にしすぎています。
少なくとも彼らの一部にとって、宇宙に秩序があり、人間の理性でその秩序を探究できるという確信は、創造主への信仰と結びついていました。
天は神の栄光を物語る
聖書には、こうあります。
天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
(詩編19編2節・新共同訳)
キリスト教の伝統では、しばしば神は二冊の本を与えたと言われます。一冊は聖書、もう一冊は自然です。聖書は、世界を造った方が誰であり、キリストによって何をしてくださったかを語ります。自然は、それだけで十字架や復活を教えてくれるわけではありません。しかし自然もまた、神の御手の業として、秩序と豊かさを物語っています。
科学は、その自然という本を丁寧に読む営みだと言えるでしょう。
そして大切なのは、聖書が間違っているのではなく、聖書や世界についての私たちの理解が間違うことはある、ということです。
「神様が造った宇宙は、絶対に円でなければならない」。聖書のどこにも、そんなことは書いてありません。人間が勝手に「神様なら円がお好きなはず」と決めつけただけです。神を信じているつもりで、実は自分の美意識を信仰していたのです。
信仰とは、訂正されないことではない
これは天文学だけの話ではありません。
教会でも私たちは、「昔からこうしてきた」「クリスチャンなら当然こう考える」「自分の解釈こそ聖書的だ」と、いつの間にか自説を真円にしてしまいます。そして現実と合わない部分が出ても、「誤差です」と片づけてしまう。
けれども、ケプラーが8分角を無視しなかったように、小さな違和感に耳を傾けることが、理解を大きく前進させる場合があります。
信仰とは、決して訂正されない自分になることではありません。真理である神の前で、自分のほうが訂正され続けることです。
第23話でバデーニは、円への執着を手放したとき、神を失ったのではありません。むしろ、思い込みの向こう側で「本当に動いている世界」に触れ、神に祈りました。
惑星の軌道は円ではなかった。
しかし、それで宇宙の美しさが壊れたわけではありません。人間が考えた完全さより、もっと複雑で、もっと繊細で、しかも正確な美しさが現れたのです。
神様は、私たちの円に収まる方ではない。
そして真理を求める信仰は、「神様、私が間違っているかもしれません」と祈る勇気を与えてくれる。
一本のネックレスから、そこまで描いてしまう。
このマンガ、やっぱり凄くないですか?


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