『チ。―地球の運動について―』原作26話、アニメ11話までのネタバレを含みます。
また、原作の話数に合わせて神学(考察)していきますので、以下の過去作をまだご覧になっていない方はご覧ください。
チ。地球の運動について を神学してみた。|サブカル好きの牧師|note
チ。地球の運動についてを原作に基づいて、週2回くらいのペースで神学(考察)していく予定です。
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「暗号解読」と聞くと、スーパーコンピューターや、頭脳明晰な探偵を思い浮かべるかもしれません。ところが『チ。』原作第26話で登場する解読法は、驚くほど地道です。文字が何回出てくるかを数える。それだけで、読めなかった文章に入口が開くのです。
この回では、暗号で書かれた日記を解読したという匿名の通報がノヴァクに届きます。正確には、頻度分析をしたのは通報の書き手で、ノヴァクはその情報を手がかりに動きます。学問を守るための暗号が、研究者を追い詰めるきっかけになる。物語が一気に不穏になる場面です。[1]
その「頻度分析」の歴史をたどると、私たちの視線は中世ヨーロッパから、さらに東へ向かいます。現存する最古の説明を残したのは、9世紀のイスラム世界で活躍した学者、アル=キンディーでした。千年を超える暗号解読の物語には、宗教と学問の関係を考える手がかりが隠れています。[2]
さて、頻度分析とは何でしょうか。
人間の言葉には、よく登場する文字と、あまり登場しない文字があります。たとえば英語の長い文章では、一般にEが多く、ZやQは少なくなります。どの文字も均等に使われるわけではありません。日本語でも、文章によって偏りはありますが、「ぬ」が少なかったり、逆に「の」「に」「は」などはよく目にしますよね。
ここで、ある人が文章の文字を別の記号に置き換えたとします。Eを毎回「☆」に、Tを毎回「△」にする。こういう、同じ文字をいつも同じ記号へ置き換える方式を「単一換字式暗号」と呼びます。見た目はすっかり変わっても、Eが多かった文章では、☆も多いままです。
解読する人は、その偏りを調べます。一番多い記号は、元の文章でもよく使う文字に対応しているのではないか。さらに、短い単語や、繰り返し現れる文字の組み合わせを手がかりに、仮説を立てて試していきます。英語なら「the」のような頻出語も助けになります。
もちろん、一番多い記号をEにすれば必ず解ける、というほど単純ではありません。短い文章では偏りが大きく、専門用語の多い文章も一般的な文章とは違います。頻度分析は、答えを自動的に教える魔法ではなく、候補を絞るための方法なのです。[3][4]
それでも、文字の姿を隠したつもりが、使われ方の癖までは隠せていない。ここに気づいたのは、大きな発見でした。暗号を作った人の想定とは違う角度から、文章を眺めるのです。日記のように文章が積み重なるほど、分析の材料も増えていきます。書き残して守ろうとしたものが、解読の足場にもなる。この仕組みを知ると、あの場面の怖さが少し違って見えてきます。
アル=キンディーが活動したのは、現在のイラクにあたる地域です。とくにバグダードは、アッバース朝のもとで学問が集まる場所になっていました。彼は哲学者であり、数学、光学、音楽などにも取り組んだ人でした。今なら学部の垣根を何枚も飛び越えるような研究者です。[5]
彼の暗号解読に関する著作には、同じ言語の普通の文章を十分に集め、文字の出現回数を調べ、それを暗号文の記号の頻度と比較するという発想が記されています。読むために、まず数える。言葉の研究と数量の研究が出会ったところから、解読の技術が組み立てられていったわけです。[3]
ただし、「彼が世界で最初に思いついた」とまで断定はできません。確認できるのは、頻度分析について現存する最古の記述を残した人物だ、ということです。歴史では、発見された記録の古さと、実際の発明の順番は、分けて考える必要があります。
9世紀から今日まで、およそ1200年。この解読法は、千年を優に超える歴史を持っています。ノヴァクたちの生きる15世紀から見ても、すでに何百年も前に記された知恵なのです。
暗号を使う人たちも、もちろん対策を考えます。同じ文字がいつも同じ記号になるから頻度が残るのなら、途中で対応関係を変えてしまえばよい。
15世紀のイタリアでは、レオン・バッティスタ・アルベルティが、二枚の円盤を使って文字の対応を変える仕組みを考案しました。1467年のことです。円盤を回し、同じ文字でも違う文字へ置き換える。これなら単純な文字の集計だけでは読みづらくなります。[6]
しかし、隠す側が工夫すれば、読む側も工夫します。19世紀には、カシスキーが、繰り返し現れる文字列の間隔から、鍵の周期を探る方法を公表しました。周期的に置き換え方が変わる暗号でも、同じ対応が使われる部分を分ければ、再び頻度分析を使える場合があるのです。[7]
現在の通信を守る暗号は、こうした文字の置き換えより、はるかに複雑になっています。それでも、隠された情報に残る規則性を探すという姿勢は続いています。暗号の歴史は、一度すごい発明が出て終わる物語ではありません。隠す工夫と、見抜く工夫が積み重なる歴史です。
実際、現代の写本研究でも、この方法が活躍しています。ハンブルク大学の研究者たちは、小型のクルアーンに付された暗号文を、文字の頻度などから読み解きました。現れたのは、16世紀イングランドのトマス・モアらをたたえる英語の文章でした。イスラムの聖典、ヨーロッパの人物、アラブの学者が記した解読法。一冊の写本の中でも、文化の境界は思いのほか入り組んでいます。[8]
ここで、牧師として面白いと思うことがあります。『チ。』を見ていると、ともすれば「宗教が学問を妨げ、科学が宗教から人間を解放した」という図式だけで歴史を読んでしまいそうになります。
ところが、頻度分析の古い記録を残したアル=キンディーは、イスラムの信仰と哲学を両立させようとした人物でした。ギリシアの思想を受け取りながら、神や世界について考え、同時に数学や自然の研究にも取り組んでいたのです。[9]
宗教を信じていたから研究できなかった、という話では収まりません。もちろん、宗教が学問を抑えた歴史もあります。けれども、信仰を持つ人々が知を育て、ほかの文化の学問を受け取り、次の世代へ渡した歴史もあります。どちらか一方だけでは、私たちが受け継いできた知恵の来歴は見えてきません。
キリスト教の神学には、「一般恩恵」という考え方があります。とくに改革派などのプロテスタントで語られる言葉ですが、難しく構える必要はありません。神が人間に与える知性や、社会を支える善い働きは、教会の中だけに限定されない、ということです。
宗教改革者カルヴァンも、『キリスト教綱要』で、信仰の異なる人々の著作や学問に見られる優れたものを、創造主からの賜物として受け止めています。自分の仲間が発見したかどうかよりも、そこにある真実を見ようとする姿勢です。[10]
病気の治療でも、橋の建設でも、研究者が自分と同じ信仰を持っているかどうかだけで成果を判断したら、私たちの暮らしは成り立ちません。違う信仰を持つ人の発見にも、学ぶべきものがある。牧師の私が、イスラム世界の学者の知恵に感心することも、この視点から自然に理解できます。
聖書にも、興味深い場面があります。使徒言行録17章で、パウロはアテネの人々に語るとき、彼らの詩人の言葉を引用します。自分たちの共同体の外にある言葉も、神について考えるための対話の手がかりにしたのです。[11]
自分の信仰を大切にすることと、違う場所で生まれた知恵を受け取ることは、両立します。キリスト教徒だからイスラムの学者からは学べない、という態度を取ってしまうなら、それは信仰を守る以上に、学ぶ入口を自分で閉じてしまうことになるでしょう。
ただ、原作26話は、もう一つの問いを私たちに突きつけます。優れた知識を持つことと、それを善く使うことは、同じでしょうか。
頻度分析は、文章を読むための道具です。それによって失われた記録を取り戻すことも、秘密を暴いて誰かを追い詰めることもできます。この場面では、解読された情報が異端審問へつながっていく。知識の正確さだけでは、その使い方の正しさまで保証できません。
私はここに、『チ。』の苦い面白さを感じます。天体を調べる人も、暗号を調べる人も、見えないものの背後に規則性を探しています。なのに、その探究が、人を生かす方向にも、人の言葉を封じる方向にも向かってしまうのです。
だから、学問をする自由とともに、学問を何のために使うかが問われます。どこで生まれた知恵なのかを知ることは、他者への敬意を育てます。その知恵で何をするのかを考えることは、自分の責任を問い直します。
文字の頻度を数える。そこから、遠い時代の学者の姿が見えてくる。そして、読めた言葉の向こうにいる人間を、私たちはどう扱うのかという問いが残る。
暗号を解くために必要なのは、文字を見る目です。その知識を善く使うためには、人を見る目も必要なのでしょう。
参考資料
[1] 作品の場面について:原作にも触れたアニメ第12話レビュー
[3] Tamara B. Veenstra, Cryptology by Discovery「Frequency Analysis」
[4] ケンブリッジ大学 NRICH「Cipher Challenge Toolkit」
[5] セント・アンドルーズ大学 MacTutor「Al-Kindi」
[6] ニューイングランド大学古代博物館「Medieval codebreaking」
[7] ポートランド州立大学の講義資料「A History of Cryptography」
[9] Peter Adamson, “al-Kindi”, Stanford Encyclopedia of Philosophy
[10] カルヴァン『キリスト教綱要』第2篇第2章15–16節(英訳)
[11] 使徒言行録17章16–34節(新共同訳)


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