出エジプト記16章 森永のお菓子マンナを神学してみた。年十二回で学ぶモーセ五書 不思議な食べ物マナによる訓練

説教

森永のお菓子「マンナ」は、出エジプト記の「マナ」に由来します。荒野を旅するイスラエルの民に、神が天から与えられた不思議な食べ物です。今日は出エジプト記16章全体を通して、マナが単なる奇跡の食物ではなく、救われた民を訓練する神の恵みであったことを学びます。

荒野とは、岩地と乾いた土地が広がり、水も食べ物も簡単には得られない場所です。人間の力が尽き、神に頼るほかない場所です。イスラエルはエジプトの奴隷状態から救い出され、葦の海を渡りました。けれども食べ物がなくなると、すぐにつぶやきます。「エジプトでは肉の鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べていた」と、苦しかった過去まで美化してしまうのです。それでも神は、つぶやく民を滅ぼさず、夕にはうずらを、朝にはマナを与えられました。信仰深いからではなく、神が憐れみ深いからです。

民は朝、地に残った白い細かいものを見て「これは何だろう」と言いました。そこから「マナ」という名が生まれます。神の恵みは、最初から分かりやすく見えるとは限りません。時には「なんやこれ?」と思うような形で与えられます。しかし後で振り返ると、荒野のただ中で主が確かに養ってくださっていたと分かるのです。

マナには訓練がありました。各自が必要な分だけ集め、多く集めても余らず、少なく集めても足りませんでした。これは、力ある者が蓄え弱い者を支配するエジプトとは違う、神の国の経済です。また、翌日まで残すと腐りました。しかし六日目だけは二倍集め、安息日に備えるよう命じられ、その分は腐りませんでした。問題は備えることではなく、神を信頼せず握りしめることです。安息日は、私たちの命が働きや蓄えだけでなく、神によって支えられていることを学ぶ日です。

さらに神は、マナを壺に入れて記念として保存するよう命じられました。忘れやすい民が、主の養いを思い起こすためです。礼拝も御言葉も聖餐も、私たちに「主は今までも養われた」と思い出させます。

新約聖書でイエス様は、「わたしが命のパンである」と言われました。荒野のマナは一日の命を支えましたが、キリストは永遠の命を与えるまことのパンです。私たちは皆、神の前に罪ある者です。しかしキリストは十字架で罪の赦しを成し遂げ、復活されました。教会は立派な人だけの場所ではありません。心の飢えを抱える者が、命のパンであるキリストに出会う場所です。今日も主は、私たちに日ごとの糧を与えてくださいます。

※サムネイルはジェームズ・ティソ作「マナを集める」

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