使徒の働き

説教

使徒5章17~42節 消スト増エマス 福音のストライサンド効果

インターネットには、隠そう、消そうとした情報が、かえって注目を集めて拡散する「ストライサンド効果」があります。かつてニコニコ動画などで「消すと増えます」と言われた現象です。使徒言行録5章でも、権力者たちは福音を押さえ込もうと使徒たちを投獄しました。しかし、主の天使が牢の戸を開き、「神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と命じます。翌朝、使徒たちは再び神殿で語っていました。大祭司は彼らを責めて言います。「見てみろ。お前たちはエルサレムを自分たちの教えで満たしてしまった。」原文の「イドゥー」は「見よ」「見てみろ」と注意を促す命令形に由来する言葉です。また、「満たした」は完了形で、福音が広まり、その結果が今も残っていることを表します。福音を消したかった人々自身が、「エルサレム中が福音で溢れている」と認めているのです。
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使徒4章1~22節 どの道も登れば同じ富士の山というけれど

宗教は、富士山に登る道のようなもの。道は違っても頂上は同じ」と言われることがあります。しかし富士山の登山道が同じ頂上に着くのは、初めから同じ山の斜面にあるからです。諸宗教は、神、人間の問題、死、救いについて、実際には異なることを語っています。それらを全部同じだと言うのは、かえってそれぞれの信仰をまともに聞かないことにもなります。使徒言行録4章で、ペトロとヨハネは、生まれながら足の不自由な人が癒やされた出来事をきっかけに、最高法院で取り調べを受けます。以前は女中の言葉を恐れてイエスを三度否んだペトロが、今は聖霊に満たされ、「ほかのだれによっても、救いは得られません」と大胆に語ります。この大胆さは、性格の強さではなく、失敗した自分が復活の主に赦され、立ち上がらせていただいた恵みから生まれました。イエス・キリストだけが救い主であるのは、クリスチャンが他の人より優れているからではありません。私たちの罪を負って十字架に死に、死に勝利して復活された方が、イエス・キリストのほかにおられないからです。「キリストだけ」という告白は、他者を見下す根拠ではなく、自分では救えなかった者の感謝とへりくだりの告白です。私たちは異なる信仰の人々の人格と信教の自由を尊重し、良い隣人として共に生きます。同時に、批判を恐れて福音の核心を薄めることもできません。福音は、人間がさまざまな道から神のもとへ登って行く話ではありません。登れず、迷い、倒れた私たちのところへ、神の御子が降りて来てくださった知らせです。イエス・キリストは人生を少し便利にする選択肢の一つではなく、罪と死から救う代わりのない救い主です。だから私たちは、誰をも侮辱せず、しかし恐れずに、「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられない」と告白します。
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使徒 3章全節 お金より大切なもの見つけた

生まれつき足の不自由だった一人の人が、主イエスの御名によって立ち上がる出来事が記されています。この人は毎日、「美しい門」と呼ばれる神殿の門のそばに置かれ、施しを求めていました。「美しい門」が正確にどの門であったかは断定できませんが、神殿の礼拝空間へ向かう大切な境界にあった門でした。彼は礼拝へ向かう人々を見ながら、自分は門のそばに置かれ、今日を生きるための施しを求めていたのです。
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使徒2章41~47節 中国天津に天津飯は存在しない

「天津飯」という料理があります。ところが、この天津飯、名前からするといかにも中国の天津市の名物料理のようですが、実際には中国天津の伝統料理ではありません。日本で生まれた、日本式中華料理です。つまり、私たちは「これは中華料理だ」と思って食べている。しかし、本場の中国の人から見ると、「え、それ何ですか?」となるかもしれない。もちろん、天津飯が悪いわけではありません。おいしい。立派な日本の食文化です。しかし問題は、「これは本場そのものだ」と思い込むことです。今日の問いはそこです。私たちのキリスト教は、天津飯になっていないでしょうか。
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使徒 2章22~42節 十字架につけられた人が救い主?!

皆さん、「救い主」と聞いて、どんな人を思い浮かべるでしょうか。強い人。負けない人。悪を倒す人。最後には大逆転する人。映画でも漫画でも、ヒーローというのはだいたいそうです。倒れそうになっても、最後は立ち上がる。敵を打ち破る。拍手喝采を浴びる。ところが、聖書が語る救い主はどうでしょうか。十字架につけられた人です。これは当時の人々にとって、信じがたいことでした。十字架刑は、ただ死ぬ刑罰ではありません。ローマ帝国が見せしめとして行う、最も恥ずべき処刑でした。「この者は負けた」「この者に従う者も同じ目に遭うぞ」と世にさらす刑罰です。ですから、「十字架につけられた人が救い主です」と言うのは、普通に考えれば無茶な話です。今日の説教題の通りです。
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使徒2章1~13節 ペンテコステー教会の誕生日

今日はペンテコステです。よく「教会の誕生日」と言われます。誕生日というと、ケーキがあって、ろうそくがあって、プレゼントがあって、「ハッピーバースデー」と歌います。けれども教会の誕生日は、少し不思議です。ろうそくを吹き消すのではなく、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまりました。プレゼントをもらうのではなく、聖霊という神からの賜物が与えられました。そして「おめでとう、教会」と祝うだけでなく、「さあ、出て行って福音を語りなさい」と送り出される日でした。
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使徒1章1~11節 セカイノオワリよりあなたに伝えたいこと

今日の箇所で、復活されたイエス様は、四十日にわたって弟子たちに現れ、神の国について語られました。弟子たちは、もう何度も失敗した人たちです。イエス様が捕らえられた時には逃げました。ペトロは三度、主を知らないと言いました。十字架の前では、ほとんど誰も立っていられませんでした。けれども、復活の主は、その弟子たちを見捨てませんでした。「あんたら、もうええわ」とは言われなかった。「こんな大事な時に逃げた者には任せられへん」とは言われなかった。復活の主は、傷を持ったまま、弟子たちに現れます。そして彼らに、もう一度語ります。神の国について語ります。これからあなたがたは、聖霊を受けるのだと語ります。
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使徒言行録10章34~43節「あなたのイメージする神は小さすぎる」

あなたのイメージする神は小さすぎるペンテコステの今日は新約聖書の使徒言行録(使徒行伝)を皆さんとともに味わいたいと思いま...