チ。原作9話を神学してみた。私審判と最後の審判。天国行きの判定はいつ出るのか?

サブカルを神学してみた

チ。原作9話を神学してみた。私審判と最後の審判。

原作9話、第二集92ページあたりで「私審判」という言葉が出てきます。

この「私審判」という言葉、おそらく多くの日本人にとっては聞き慣れない言葉だと思います。私もプロテスタントの牧師ですから、普段の説教や教会生活の中で「私審判」という言葉を多用することはありません。これはどちらかと言えば、カトリック神学の用語です。

しかし、この言葉が『チ。地球の運動について』の中で出てくるのは、なかなか興味深いのです。

これまで私は、原作4話で火刑と火葬、そして肉体の復活について書きました。原作5話では、オクジーが「この世は終わっている。希望は天国にしかない。早く行きたい」と思い込んでしまっている、かなり歪んだキリスト教理解について書きました。原作7話では、ソクラテスのような「高潔な異教徒」は救われているのか、という問題について書きました。

つまり、ここ数話の『チ。』は、地動説の話をしているように見えて、実はかなりしつこく「人は死んだらどうなるのか?」という問題を扱っているのです。

そして、今回の「私審判」という言葉は、その問題を考える上で避けて通れないテーマです。

私審判とは何か

「私審判」とは、簡単に言えば、人が死んだ直後に、その人の魂が神の前に立たされる個別の裁きのことです。

カトリックの伝統的な理解では、人は死ぬと、その魂が神の前に立たされます。そして、その人が神の恵みに生きたのか、神を拒んだのかが明らかにされ、天国、煉獄、地獄へと向かうと考えられてきました。

もちろん、プロテスタントは煉獄という教理を基本的に認めません。私もプロテスタントの牧師ですから、聖書から明確に語れないことをあまり断定したくはありません。

しかし、人は死んだ後、神の前に立つのだ、という考えそのものは、プロテスタントにとっても決して無縁ではありません。ヘブライ人への手紙9章27節には、

「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように」

とあります。

つまり、死はただの消滅ではありません。人生は「死んだら終わり」ではなく、神の前で問われるものなのです。

これは怖い話でしょうか。ある意味では怖い話です。自分の人生が、神の前にさらされるのですから。

しかし同時に、それは希望でもあります。なぜなら、この世界では、悪人が裁かれず、善人が報われず、被害者が泣き寝入りし、加害者が逃げ切るようなことがいくらでもあるからです。

もし神の裁きがないなら、この世界の不正義は最終的には野放しになります。しかし聖書は、神はすべてをご存じであり、すべてを正しく裁かれる方だと語るのです。

最後の審判とは何か

では、「私審判」と「最後の審判」は何が違うのでしょうか。

「私審判」が死んだ直後の個人的な裁きだとすれば、「最後の審判」は世の終わりに行われる、全世界、全人類、全歴史に対する公の裁きです。

マタイによる福音書25章には、人の子が栄光の座に着き、すべての国の民を羊と山羊に分けるという有名なたとえがあります。ヨハネの黙示録20章には、死者たちが神の御座の前に立ち、数々の書物が開かれるという、なんともおそろしい光景が描かれています。

ここで大切なのは、最後の審判は単なる「天国行きか、地獄行きかの最終判定」ではないということです。

最後の審判とは、この世界の歴史そのものが神の前に明らかにされる出来事です。

誰が本当に義しかったのか。
誰が本当に人を傷つけたのか。
誰の涙が見過ごされていたのか。
誰の小さな忠実が誰にも知られずに埋もれていたのか。

そうしたすべてが神の前に明らかにされる。それが最後の審判です。

だから、最後の審判は、ただ怖がらせるための教理ではありません。むしろ、今この世界で不正義に苦しむ人々にとっては、「神は最後には正しく裁いてくださる」という希望の教理なのです。

魂だけでは終わらないキリスト教

ここで、原作4話の火刑の話に戻ります。

中世のキリスト者が火刑を恐れた理由の一つは、単に熱くて苦しいからではありません。自分の肉体が燃やし尽くされ、最後の日に復活できなくなるのではないか、という恐れがあったからです。

現代日本人からすると、これは少し分かりにくいかもしれません。日本では火葬が一般的ですし、日本人クリスチャンの多くも、火葬そのものを信仰上の大問題とは考えていません。

けれども、この恐れの背後には、キリスト教の非常に大事な教えがあります。

それは、キリスト教の救いは、魂だけが天国に行って、肉体から解放されて、ふわふわ浮かぶことではない、ということです。

聖書が語る究極の希望は、肉体の復活です。

コリントの信徒への手紙一15章で、パウロは死者の復活について長々と論じています。キリストが復活されたように、キリストに結ばれた者もまた復活する。もちろん、それは今の弱く、病み、老い、傷つき、死んでいく肉体そのままではありません。朽ちる体が朽ちないものに変えられるのです。

つまり、キリスト教はこの世を捨てる宗教ではありません。肉体を捨てる宗教でもありません。地球を捨て、天に逃げる宗教でもありません。

神はこの世界を造られました。
神はこの肉体を造られました。
神はこの歴史を見ておられます。
そして最後には、この世界を裁き、回復し、新しい天と新しい地をもたらされるのです。

オクジーの信仰はどこで歪んだのか

そう考えると、原作5話でのオクジーの「天国最高、早く行きたい」という信仰理解が、なぜキリスト教としてかなり危ういのかが見えてきます。

もちろん、キリスト教は天国を信じます。
死後の希望を信じます。
苦しみの多いこの世において、天の慰めを待ち望むことは間違いではありません。

しかし、「この世は汚れているからどうでもいい」「人生は諦めるべきだ」「早く死んで天国へ行きたい」という考え方は、聖書の終末論とは違います。

聖書が語る最後の審判は、この世界が無価値だから捨てられる、という話ではありません。この世界が神のものだからこそ、神が最後に責任をもって裁き、正し、回復されるという話なのです。

ですから、キリスト者はこの世での生活をどうでもいいとは考えません。

貧しい人を助けること。
不正義に抗うこと。
隣人を愛すること。
真理を求めること。
学問に励むこと。
苦しんでいる人のそばに立つこと。

これらは「どうせ天国に行くから無意味」なのではありません。むしろ、最後の審判を信じるからこそ、今この世界での生き方が問われるのです。

私審判と最後の審判を混同するとどうなるか

「私審判」と「最後の審判」を混同すると、キリスト教の死後観はかなり単純化されてしまいます。

死んだ瞬間に、天国か地獄かの判定が出て、それで全部終わり。

そう考えると、キリスト教はただの「あの世行き判定宗教」になってしまいます。

しかし聖書が語る終末論は、もっと大きいのです。

個人の魂の問題もあります。
しかし、それだけではありません。
世界の歴史全体が問われます。
人間の罪だけでなく、国家の罪、社会の罪、制度の罪、隠された暴力、隠された涙もまた問われます。

そして最後には、死そのものが滅ぼされます。

これがキリスト教の終末の希望です。

ですから、私審判という言葉をきっかけにして、私たちは「死んだらすぐどうなるのか」という個人の不安だけでなく、「この世界は最終的にどうなるのか」という、もっと大きな問いへ導かれる必要があります。

チ。は死後の不安をよく描いている

『チ。地球の運動について』という作品は、地動説をめぐる物語でありながら、実は「死」をものすごく丁寧に描いています。

ラファウの死。
火刑への恐れ。
オクジーの死への憧れ。
異端者の不敵な言葉。
高潔な異教徒の問題。
そして今回の私審判。

この作品の登場人物たちは、ただ「地球が回っているかどうか」だけで命をかけているのではありません。

自分の人生は何だったのか。
自分の死に意味はあるのか。
自分は裁かれるのか。
自分は救われるのか。
自分の信じたものは、死を越えて残るのか。

そういう問いを抱えながら生きているのです。

だからこそ、この作品は単なる反キリスト教マンガとして片づけるには、あまりにも惜しい作品なのです。

もちろん、C教の描き方には「こんなキリスト教は嫌だ!」と言いたくなる部分が多々あります。しかし同時に、キリスト教が本来大切にしてきた死後の希望、裁き、復活、終末の問題を、現代の日本人読者にここまで考えさせる作品も珍しいのです。

死んだらどうなるのか。

この問いは、古臭い宗教の問いではありません。
今もなお、人間にとって避けて通れない問いです。

そしてキリスト教は、その問いに対してこう答えます。

人は死んで終わりではない。
人は神の前に立つ。
歴史もまた神の前に立つ。
そして、イエス・キリストは死に勝利し、復活された。

だから、私たちは死を恐れないふりをする必要はありません。
また、この世を諦めて早く天国へ逃げようとする必要もありません。

神が最後に裁かれる。
神が最後に回復される。
神が最後に死を滅ぼされる。

その希望の中で、私たちは今、この地上で、今日与えられた命を生きるのです。

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