※この記事は、マンガ原作『チ。―地球の運動について―』第12話、アニメ第6話までのネタバレを含みます。以下の過去作をまだご覧になっていない方はご覧ください。
チ。地球の運動について を神学してみた。|サブカル好きの牧師|note
チ。地球の運動についてを原作に基づいて、週2回くらいのペースで神学(考察)していく予定です。
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地動説は神を消したのか?
『チ。―地球の運動について―』を読んでいると、ついこういう図式で見てしまいます。
天動説=教会側、信仰側。
地動説=科学側、反教会側。
つまり、「信仰と科学の戦い」として読んでしまうわけです。
たしかに、作品の中ではC教の権力が地動説を弾圧しています。C教は、言わずもがなキリスト教をモデルにしていると思われますし、P国はポーランド王国あたりを連想させます。
ですから、「教会が古い迷信を守り、科学が新しい真理を切り開く物語」と読みたくなるのも無理はありません。
……いや、待ってください。
本物のキリスト教の牧師である私が神学、もとい考察すると、実はここが面白いのです。
第12話のバデーニは、神を否定するために地動説へ向かっているわけではありません。むしろ逆です。
彼は、「神がこの世界を造ったのなら、その世界はシンプルで調和のとれたものであるはずだ」という前提で語っています。
神が造った世界だからこそ、そこには美しい秩序があるはずだ。もっと単純で、もっと調和した説明があるはずだ。
そう考えている。
「科学VS宗教」だと思ったら、ちょっと違った
まず大事なのは、天動説もまた、ただの迷信ではなかったということです。
現代の私たちは、地球が太陽の周りを回っていると知っています。だから、天動説と聞くと「昔の人は科学を知らなかったんだなあ」と思ってしまいがちです。
でも、それはちょっと雑です。
中世ヨーロッパの人々にとって、天動説はかなり整った世界観でした。
地球が中心にあり、その周りを天体がめぐる。この宇宙観は、アリストテレスやプトレマイオス以来の自然学と結びつき、さらにキリスト教的な世界理解とも結びついていました。
つまり天動説は、当時の人々にとって「神が造った秩序ある世界」を説明する枠組みだったのです。
だから、天動説を信じていた人々を、単に「頭が固い迷信深い人たち」とだけ見るのは、少し違います。
彼らもまた、神の世界には秩序があると考えていました。その秩序を、天動説で説明していたのです。
地動説も、神を捨てた思想ではなかった
一方、地動説も神を否定する思想として始まったわけではありません。
ここが肝要です。
バデーニは、地動説に「美しさ」を見ています。複雑に見える天体の動きが、よりシンプルに、より調和的に説明できるかもしれない。そのことに心を動かされているわけです。
ここで彼の発想は、かなり神学的です。
神が世界を造った。神は理性的な方である。ならば、神の造った世界も理性的に理解できるはずである。そして、その仕組みは無駄にぐちゃぐちゃではなく、美しい秩序を持っているはずである。
これは、「神なんていないから地動説だ」という発想ではありません。
むしろ、「神が造った世界だからこそ、地動説の方がふさわしいのではないか」という方向です。
つまり第12話の面白さは、地動説が単なる反体制思想として描かれていないところにあります。C教に反抗するためだけの思想ではなく、神の世界をもっと深く理解したいという欲望と結びついているのです。
ガリレオは無神論者ではない
ガリレオ・ガリレイは、近代科学の象徴のように語られる人物です。そのため、なんとなく「宗教と戦った科学者」というイメージがあります。
もちろん、ガリレオは教会権威と激しく衝突し、1633年には異端審問で有罪判決を受け、自説を撤回させられます。
ただし、ガリレオ自身が無神論者だったわけではありません。彼はカトリック教徒でした。
むしろガリレオは、自然と聖書は同じ神に由来するのだから、本当の意味では矛盾しないはずだ、という考え方を持っていました。
神が造った自然と、神が与えた聖書が、本当の意味で矛盾するはずがない。もし矛盾して見えるなら、自然の観察が間違っているのかもしれないし、あるいは人間の聖書解釈が間違っているのかもしれない。
つまり、問題は「聖書を捨てるか、科学を捨てるか」ではありませんでした。
むしろ、「神が造った自然の事実が明らかになったなら、聖書の読み方をもう一度考える必要があるのではないか」という問題だったのです。
聖書を捨てるのではありません。神を捨てるのでもありません。神の言葉と神の世界は最終的に矛盾しないはずだと信じているからこそ、聖書解釈を問い直すのです。
ガリレオが紹介したとされる有名な言葉に、こういう趣旨のものがあります。
「聖書は、天がどう動くかではなく、人がどう天に行くかを教える」
扱いには多少注意が必要ですが、言いたいことはよく分かります。
聖書は天文学の教科書ではありません。聖書は、神と人間の関係、救い、罪と赦しを語ります。一方、自然の仕組みについては、観察し、計算し、研究する必要がある。この区別を失うと、信仰は強くなるどころか、かえって脆くなります。
聖書は天文学の教科書なのか?
聖書を読んだことのない人にとっては意外かもしれませんが、聖書には自然を神の作品として見る言葉がたくさんあります。
たとえば詩編19編には、こうあります。
「天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。」
詩編19編2節
これは、とても美しい言葉です。
空を見上げる。星を見る。大空の広がりを見る。そこに、神の栄光が表れている。
この感覚は、バデーニの発想とも響き合います。
自然を調べることは、神の作品を読むことでもある。世界には秩序がある。だから、世界を知ることには意味がある。
もちろん、聖書の中には「日が昇る」「日が沈む」という表現もあります。ヨシュア記10章には、「日よ、止まれ」という有名な場面もあります。
けれども、私たちも今でも普通に「日の出」「日の入り」と言います。言葉には、現象を日常的に表現する言葉と、科学的に説明する言葉があります。
聖書の言葉を大切にすることと、聖書を天文学の教科書のように読むことは、同じではありません。ここを間違えると、信仰を守っているつもりで、実は自分たちの読み方を守っているだけ、ということが起こります。
バデーニの信仰、もとい知識欲
第12話のバデーニが面白いのは、彼が地動説を単なる「反教会」の道具として見ていないところです。
彼は、世界の仕組みに美しさを求めています。
この宇宙が神によって造られたなら、そこには統一感があるはずだ。もっと単純で、もっと調和があり、もっと美しく説明できるはずだ。
この感覚は、科学的であると同時に宗教的です。
そしてキリスト教的に言えば、その「世界は理解可能である」という感覚は、創造信仰と相性が良いのです。
世界は偶然のごちゃ混ぜではなく、神が造った秩序ある現実である。だから、世界を調べることには意味がある。
ただし、ここで牧師として一つツッコミを入れておきたいのです。
「神が造った世界ならシンプルなはずだ」という発想は魅力的です。しかし、現実の世界は、必ずしも人間にとって分かりやすい意味でシンプルとは限りません。自然は驚くほど複雑です。生物も、宇宙も、人間の心も、簡単には割り切れません。
ですから、バデーニの発想には魅力と危うさの両方があります。
魅力は、世界の背後に美しい秩序を信じていることです。危うさは、自分が美しいと思う説明を、真理そのものと取り違える可能性があることです。
これ、けっこう肝要です。
信仰者はよく、「神はこういう方であるはずだ」と考えます。しかし、いつの間にか、「神は私の理解通りでなければならない」に変わってしまうことがある。
ここで人間は、おんなしことをやらかしてしまうのです。
神を守っているつもりで、自分の解釈を守っていないか
『チ。』のC教世界で問題なのは、神を信じていることそのものではありません。
問題は、人間の解釈を、神の真理そのものと同一視してしまうことです。
天動説という一つの宇宙理解を、「神の真理」と完全に重ねてしまう。自分たちの教説を守ることと、神を守ることを同じにしてしまう。その結果、新しい観測や新しい説明を、神への反逆として扱ってしまう。
でも、本当は違います。
神が真理の神であるなら、真理を恐れる必要はありません。
怖いのは、神ではありません。怖いのは、神の名を使って、自分たちの理解を絶対化してしまう人間です。
私はプロテスタントの牧師ですから、中世カトリックのガリレオ裁判を上から目線で批判したくなる誘惑もあります。
でも、そんなに簡単な話ではありません。
プロテスタントだってやります。いや、けっこうやります。
聖書そのものよりも、「昔からこう読んできた」「うちの教会ではこう教えてきた」「この言い方を変えると信仰が崩れる」といったものを、いつの間にか絶対化してしまうことがあります。
これ、現代日本の教会にも通じるところがあります。
もちろん、伝統は大事です。何でもかんでも時代に合わせて変えればいい、という話ではありません。
けれども、伝統を大切にすることと、自分たちの読み方を神そのもののように扱うことは違います。
聖書を守っているつもりで、実は自分たちの読み方を守っているだけだった。そんなことは、残念ながら現代の教会にも起こり得るのです。
だからこそ、キリスト教会側にも反省が必要なのです。
地動説は、神を消したのではない
第12話で面白いのは、地球が動くかどうかだけではありません。人間の読み方が動くかどうかです。
世界の読み方。聖書の読み方。伝統の読み方。権威の読み方。そして、神の造った世界をどう受け止めるか。
天動説も、地動説も、どちらも神を信じる人間の世界理解でした。
だからこそ、争いは激しくなりました。片方が信仰で、もう片方が無信仰なら、話は単純です。しかし実際には、どちらも神の世界を説明しようとしていた。だからこそ、「どちらの説明が、より神の造った世界にふさわしいのか」という争いになったのです。
バデーニは、その中で地動説の美しさに心を動かされます。
それは、神を捨てる動きではありません。むしろ、神が造った世界を、もっと美しく、もっと整合的に理解したいという動きです。
もちろん、バデーニ自身には高慢さもあります。知識欲もあります。危うさもあります。
でも、それでもなお、第12話の彼の語りには、「世界はもっと美しく説明できるはずだ」という強い信念があります。そしてその信念は、意外にも無神論ではなく、有神論の土壌から生まれているのです。
地動説は、神を消したのではありません。むしろ、神が造った世界を、もう一度読み直そうとする試みでした。
もちろん、その読み直しには危うさもあります。バデーニのように、知識欲が高慢へ変わることもある。教会のように、信仰が権力へ変わることもある。
でも、それでもなお、第12話が面白いのは、地動説を単なる「反宗教」ではなく、「神の世界はもっと美しく読めるはずだ」という信仰にも似た欲望として描いているところです。
このあたりに、作者の魚豊先生の考証の深さを感じます。
『チ。』は、教会をかなり厳しく描きます。牧師としては「いやいや、そこはちょっとめちゃくちゃです」とツッコミたくなる場面もあります。
それでも、この作品は単純に「宗教は悪、科学は善」とだけ描いているわけではありません。
信仰の中にある知への欲望。知の中にある信仰のようなもの。そして、人間が真理を扱うときにどうしても入り込んでしまう高慢さ。
この繊細な部分をマンガとして描いている『チ。』という作品に、あらためて敬意を表したいと思います。
皆さんはこの場面をどう読みましたか?


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